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あおしま文庫

筆者が読んだり見たりした本、映画などについて論じる

政府側の「避難経路」に満ちた「給付型奨学金」

雑記 新聞 社会制度

しばらく書評を書いてなかったが、今月になって、読むのに時間のかかっていたケインズの「雇用、利子および貨幣の一般理論」をようやく読み終わった。そちらを紹介しようと準備をしていたのだが、新聞の一面がとんでもない記事だったのでこちらを取り上げる。ケインズ田山花袋と一緒に考えたいので、花袋の「蒲団」を読み終わってから紹介するつもりだ。

対象となるのは朝日新聞の12月18日付の朝刊掲載の「給付奨学金 月2万~4万円」だ。現在では、大学生に対する奨学金は、有利子にせよ無利子にせよ一度借りたら返さなければならない「貸与型」の奨学金がほとんどで、返済義務のない「給付型」の奨学金の創設が求められていたが、政府が創設する「給付型」の奨学金の案がおおよそ固まった、ということを報じた記事だ。

一面のトップ記事であるにもかかわらず関連記事がなく、この問題に対する朝日新聞社の本気度が疑われる。しかし、同じ日の21時30分ごろにYahoo!ニュースで検索したところ、12月8日の昼と夕方にそれぞれ時事通信毎日新聞月額2万~4万円に=給付型奨学金で原案―文科省 (時事通信)<給付型奨学金>月2万~4万円に…文科省検討 (毎日新聞)というほぼ同じ内容の記事を配信しているが、他には今野晴貴橘玲誰が「新しい奨学金」を受けられるのか?(今野晴貴)給付型奨学金がうさんくさいのには理由がある(橘玲)という論評を書いているだけで、他の報道機関の関心もそれほど高くはなさそうだ。朝日の記事と比較すると、毎日と時事通信の方が情報の出所が文科省であると明記している点が良い。朝日は後発なので、他の二紙よりも新しい情報が含まれてはいるが、情報源、あるいは政府機関のどの部門が検討チームに参加しているのかを明記していないのは問題だろう。しかし、憤慨したのはその政府案の内容だ。一応、一面のトップ記事に採用したこと自体は、評価できる。

朝日新聞の報道によれば、政府案の内容は、

住民税非課税世帯が給付の対象で一学年約2万人。

給付額は通う大学が国公立か私立か、自宅からの通学か下宿か、という負担の重さに応じて月額2万円から4万円に決まる。

対象者の条件はA高い学習成績(今野や橘によれば、他の報道では5段階の内申点で平均4以上)B教科以外の学校活動などで成果、というAかBのいずれかで学校による推薦が必要。

国立大学の授業料減免制度を使う場合は、その分給付額を減らす。

大学に学業の状況を毎年度確認してもらい、著しく悪い場合は返すよう求める。

2018年度から本格的に実施するが、17年度から負担が重い下宿住まいの私大生などには先行実施。そのための予算は、文科省の予算の組み替えや厚労省の同種の制度を縮小したりして確保する。

以上の6点に要約できる。しかしここには多くの問題がある。

まず考えたいのは、この「給付型奨学金」を創設する目的だ。奨学金を支給する目的というのは、「お金がなくて勉強ができないのなら、その分をあげよう」という低所得者支援と、「君のように優秀な人ならもっと勉強してほしい、だからお金をあげよう」という優秀な人材の確保のための勉学奨励の二種類が考えられる。上記の③と⑤からはある程度後者の性格を持っているように見えるものの、所得制限を設ける①があることから実際には低所得者支援であるのは間違いない。ノーベル賞受賞者のようなエリートになりそうな人材を本気で確保したいのであれば、所得に制限などつけている場合ではない。しかし、建前の上では低所得者支援なのか、人材の確保なのか、どちらともとれるようにしている。

また、支援する目的が受給者の「学費支援」なのか「生活支援」なのかもはっきりしない。②のように国公立よりも学費の高い私立大生に多く支給すること、また④のように授業料の減免制度と併用ができないことから、「学費支援」のための奨学金のように思えるが、それなら、他の目的で使ってしまう可能性がある現金給付ではなく、最初から授業料を引いておく方が確実だろうし、制度を新設するという面倒なことをする手間も省けるはずだ。一方、①の住民税非課税世帯はおおよそ生活保護を受給する条件と同程度の収入の水準であること、②の実家通いよりも家賃を支払わなければならない下宿住まいの学生に多く支給することから、「生活支援」のようにも思える。しかし、「学費支援」の場合についてもいえるのだが、支給額が全く不十分だ。支給される金額は月額で全員に2万円、私大生にはプラス1万円、下宿生にはプラス1万円だ。年額だと全員に24万円、私大生にプラス12万円、下宿生にプラス12万円。全員に支給される月2万円は国公立大学の学費にも届かないし、月1万円では国公立と次第との差額を埋められない。地域にもよるが月に一万円の下宿など見つけられるのだろうか。現在の収入水準でぎりぎりの生活を送っているとしたら、給付を受けても大学への進学は大幅な赤字だ。この奨学金が進学を後押しすることはあまりなさそうだ。ないよりはマシだが、実際には貸与型の奨学金も借りざるを得ないだろう。

以上のように二つの点で、この奨学金の目的はあいまいだ。目的があいまいだということは、この奨学金を通して何を実現したいのかということもあいまいなのだろう。なぜあいまいなのかと言えば、この奨学金があちこちの方面からの要求に応えらえるように、どうとでも解釈や言い訳のできるもの、つまり逃げ道を多く用意したものだからに違いない。橘玲は前出の記事で次のように書いている。

 

「(前略)要するに、バカな生徒に税金を使うと世論の反発が面倒だから、賢い生徒に給付して見てくれをよくし、“弱者”のためにいいことをしているとアピールしたいのです。(後略)」

 

彼の記事の論調や内容にはあまり賛同できないが、この部分、特に「アピール」という言葉には強く賛同したい。この「給付型奨学金」に対して利害関係を持つのは、貧困と低所得の相関関係を問題視する教育関係者や予算の削減を求める政治家や財務官僚、学費負担の減免を訴える学生や保護者、他者への支援を拒否する(一部の)一般人など様々に考えられるのだが、そのどれに対してもある程度「我々はこうしています」というアピールができそうな制度にしているのである。

例えば、先ほど挙げた④の授業料減免との併用の不可や⑥の予算の組み替えによる実施というのは、予算の削減を求める意見に配慮したものだろう。しかし、「もらうお金の名前が変わっただけで中身は変わらない」のであれば、受給者の負担の軽減にはつながらず、意味もなく制度をいじっただけで終わる。今回の給付金のうち、すべてではないだろうが一部についてはそのような性質のものであるということは確実だ。

また、返還義務がないはずの「給付型奨学金」のはずなのに⑤のように成績についての条件を定めて返還の可能性を残すのは(私はインチキだと思う。だから今まで「給付型奨学金」と括弧をつけてきた)、橘玲が指摘したような意見に対する配慮だろうが(現在の条件だと入学時に成績が悪い学生は給付を受けられないので、最初から「バカ」な生徒はいないだろう)、成績が悪化する理由は本人にやる気がないからとは限らない。生活費を稼ぐためにバイトをしていたら、バイト先に問題があったり、生活費のために長時間の労働が必要で勉強の時間が取れなかったりしたため、成績が悪化したということは現在でもある。先述したとおり、生活が困窮している家庭が大学へ行くために追加で負担しなければならない費用は大きく、奨学金の額を優に超える。可能性は十分あるだろう。他にも、けがや病気、精神的な問題、人間関係の悪化などが原因でひきこもるなど、単に「やる気」の問題、あるいは本人の責任に帰することができないものは数多くある。その点に対してすら「〝著しく″悪い」と留保をつけることで逃げを打っている。個人的には、留保をつけていること自体は歓迎すべき内容なのだけれども、どうも、手放しでは喜ぶことができない。

ちなみに、大学生なんて暇なものなのだから、バイトぐらいしていたってどうってことないのではないかと考える人のために、文科省がどのような学生を模範的な学生と考えているかがわかる一例を紹介しておく。大学の授業は、一回90分の授業を半年受けると2単位になるものが多く、一年間受け続けたとすると4単位。一年間で卒業の要件として認められる単位は40単位なので、一週間だと10個分の授業を受ける場合が多いだろう。時間にすると15時間。大学教員に聞いた話では、文科省は一つの授業に対して同量の予習と復習を必要とするなどと抜かしていたらしいので、その通りだとすれば予習と復習、授業を合わせた勉強の時間は一週間で45時間、一日の平均では6時間半以上の学習を必要とする。一日の睡眠時間が8時間だとすれば、残りの時間は9時間と少し。その残りの時間で通学や食事に風呂、下宿生と自宅通いで分量に差はあるかもしれないが買い物や料理、洗濯、掃除などの家事をこなし、さらに生活費のためにバイトをするとなれば、ほとんど休む暇はないだろう。

そして、私が一番気になったのは①の所得制限を設ける点である。2万人という規模では支援が必要な対象にいきわたらないという指摘もあるし、住民税非課税世帯よりも収入が高くても支援が必要だという指摘もある。しかし、何よりも問題だと思うのは、「給付型奨学金」というのは、結局「他人からお金をもらうこと」だということ、もらえない人はそのことを歓迎しないこと、そして制度設計者がそのことにどうも無自覚なようであるということだ。生活保護に対する風当たりが強く、受給資格がある人も制度を利用しようとしないことは以前からも指摘されてきた。井出英策も「18歳からの格差論 日本に本当に必要なもの(東洋経済新報社、2016)」で、生活保護に対する自身の経験を書いている(井出、92ページ)。だが、今年に限って言えば、「他人からお金をもらうこと」に対する妬みがどれほど強いか、多くの人が知る機会があったのではないか。奨学金をもらうことに抵抗のある人や、ねたむ人なんてそんなにいないというかもしれない。しかし、「生活保護」が「給付型奨学金」に、もっと言えば「東電の賠償金」が「給付型奨学金」に置き換わることがないと絶対の自信をもって言えるだろうか。そんなことを言う人があれば、私はその人の理性と良心を疑う。

思えば今年は、というより今年「も」悲しい事件が多く起こった。それ以上に、悲しかったのは、事件に対処する組織の対応がお粗末なものも多かったことだ。ハンセン病患者に対する最高裁判所の対応や横浜市相模原市の第三者委員会の報告書などには随分とがっかりさせられてきたが、ここにきて「給付型奨学金」の政府案がとどめを刺してくれた(これがとどめだと思いたい)。彼らの対応はどれも、「謝れって言われたんでとりあえず謝ってみました」という掲示板のタイトルにでもなりそうな軽いノリの精神のもとになされたのではないかと、疑えてならない(そういえば朝日新聞も「ファクトチェックしてみました」という同じノリの、問題意識も目的も伝わってこない企画をしていた)。軽いノリがいつも悪いとは言わない。しかし、問題意識も目的も不明確なまま行われるものがどのような成果を上げるのか、ゆとり世代であることを散々馬鹿にされてきた私には、大したものにならないだろうと自信をもって言える。そして、今回馬鹿にされているのはほぼすべての国民だろう。

どのような制度も、実際に運用してからいろいろな問題に気付き、修正を施していくことは必要だろう。しかし、「給付型奨学金」に関して言えば、始める前から問題が多すぎる。撤回をする必要はないが、再検討と修正が必須だ。制度設計者が心ある人物なら問題にはすでに気付いているだろうし、設計図にある言い訳の「避難経路」は、ほとんどが機能不全になりそうなことも本当はわかっているのではないだろうか。もしそうだとすれば、その人は自らの良心に従ってこの「給付型奨学金」にどのような理念(低所得者支援なのか、人材確保なのかなど)を掲げるのか示してほしい。しかし、「避難経路」の機能不全に気付きながらも、それを使う必要に迫られる前に自分だけ出ていくつもりの人間がいるとしたら、私は絶対に許さない。今回の政府案は「玉虫色の解決」などでという上品なものではなく、「モザイクのかかった猥褻画」である。