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あおしま文庫

筆者が読んだり見たりした本、映画などについて論じる

知識と経験が感性を作る 再考:映画「この世界の片隅に」

不思議なものだ。感性、というと大げさかもしれないので、感じ方と言っておくことにするが、言葉よりも先に存在するもののように思えるのに、それは言語によって構成される部分も多い知識や経験に大きな影響を受けている。そのことを身をもって思い知らされることが、この映画を見て二回もあった。

先日紹介した「この世界の片隅に」の映画を再び見てきた。以前、いくつかの問題点を指摘した際には、あまり好意的な書き方はしなかった。反省すべきことだが、どうも原作からの引き算で映画を見ていたところがある。最初に見たときは足りないところにばかり目が行っていた。ところが今回は、素直に「いい映画だな」と思えた。映画を見る前に抱いていた過剰な期待が消えたからだろう、前回見た時に疑問を覚えた部分は同じような感想を抱いたのだが、それ以外の部分についても見る余裕があった。今回は映画の評価について再考するとともに、原作のある作品を映像化やマンガ化、ノベライズすることなどについて考えたい。

あらすじについては、原作も含め以前書いた記事を読んでもらえばよいと思う。大筋では原作と変わらないが白木リン(名前はカタカナ表記でした、以前の記事はひらがなで書いている部分があります、スミマセン)に関するエピソードは大幅に削られている。また、原作から一部省略されているためつながりが悪いシーンがある。幼馴染みの水原が鉛筆を渡すシーン、水原が入湯上陸ですずの家にやってくるシーンは以前指摘したとおりだが、小姑の径子さんがすずに広島へ帰ればと言うシーンや周作に荷物を届けるためにすずが化粧をするシーン、落下してきた焼夷弾をすずが眺めているシーンなどはもう少し手を加えた方が良かったように思う。

話が逸れるが、最初に映画を見た後の感想をまとめた記事のタイトルは、元は「原作物は難しい」にするつもりだった。しかし、文章を書いているうちに、原作のうちどの部分を使いどの部分を省略するか、セリフなどを映画化するにあたってどのように変更していくか、といった編集作業に頭を悩ませている製作陣の姿が思い浮かんだので、公開した時のタイトルに変更した。編集者の苦悩を映画「ベストセラー 編集者パーキンスに捧ぐ」で、少し前に見ていたことの影響もあったかもしれない。

ストーリーには大きな変更がないものの、演出や細かいセリフについては大幅な変更・追加がなされている。前回映画を見た後の感想では、「原作にややとらわれすぎている」と感じた。それは、一部つながりの悪いシーンやリンの登場の必要性については今でもそう思うのだが、作品全体で見れば、かなり監督の独自色が出ていた。この点については、私の以前の記事を明確に修正しておきたい。また、「間がない」という点についても、一部の場面転換時に限定しておきたい。もう少し余韻があった方が良いシーンがあるのは間違いないが、ストーリー、あるいは会話が展開されている部分についてはそのような印象は、ほぼない。

出演者(の演技)や音楽、映像の美しさなど、注目を集める要素はいろいろあるのだろうと思うが、本作の一番の見どころは、上記の演出や背景などへの細かいこだわり、それを通じて戦時下に生きる人々の「生活」を描き出したことだろう。ストーリーの構成やセリフ回し、ちょっとした描写で感情の機微や登場人物の過去・心情を描く表現力などについて原作者は卓抜した能力を持っており、そういった部分では原作のマンガには及ばないかもしれない(ので、そういった点に興味があり映画しか見ていない、という場合は原作を読むことを強く推奨する)。しかし、原作では内容が濃すぎる結果、わかりにくかったり気づかなかったり、あるいは見落としてしまうような表現が結構あったのだが、静止画であるマンガのコマから動画のアニメへと変換する際に、それぞれのシーンにおける登場人物の行動の意味付けを、動作や会話の追加によって行っている。映画を見た後に原作のマンガを読むと、「この部分はこういうことだったのか」と気付くことが、特に登場人物の行動に関しては多い。

また、史実に基づいて正確な描写をしようという態度を、背景などへのこだわりから随所に感じられた。この点については原作を遠慮なく変えていた。例えば、原作のマンガにおいて水原が青葉の艦上で白鷺を見つけた時の服は白いセーラー服だったが、映画では軍服に変わっているし、時限爆弾についても原作とは様子が違う。これらは資料を参考にした結果、変えた方がいいと判断したのだろう。また、よくこんな大胆な改変をしたなと思うのが、呉が初めて空襲に遭うシーンだ。その場面自体は原作にもあるのだが、空襲の様子を見てすずが「これを絵にできたら」と思うのは原作にはなく連想させる描写もない。同じシーンにおいてお義父さんがエンジン音を聞いてうんちくを垂れつつ感慨にふけったり、工廠歌(だったと思うがとにかく歌)を歌ったりするような描写は他の部分に近いものはあるのだが、この場面ではない。すずもお義父さんも架空の人物なのだから、この場面は創作であるが、極めてリアリティがあるシーンで、二人の性格、さらには「人間」というものの性質をよく理解しつつ描いている。恐らく誰かの体験談や、体験談をまとめた書物などから想を得たのだろうと思うが、何の手がかりもなく思いついたシーンだとしたら素晴らしい。が、感心を通り越して呆れる。どのような思考回路なのだろうか、と。

資料・史実に忠実である、というのはただの趣味や嗜好だと思う人もいるかもしれないが、見る者がそこから何を読み取るかということについて与える影響は計り知れない。原作も含めてこの作品は、過去の戦争について虚構を交えて再構築し再現しようとする作品だったが、現実のある側面を描こうとした点は極めてジャーナリスティックな作品であり、映画は特にその面が強いように思う。

ただ、二回見たうえでの観客の反応を考えると、入れておくべきだったのかなという要素が一つだけある。この作品のテーマは「戦時下の生活」だ。様子と言い換えてもいいかもしれない。ただ、あくまで「戦時下」だ。どれだけ明るく振舞っていたとしても、人の死がすぐ身近にある世界だった。確証はないのだが、リンの後輩テル(すずが持っている口紅は、元々は彼女の持ち物だ)が亡くなったと聞いたあたりから、すずは死に対して何らかの覚悟を持つようになっている。決して数が多くはないのだが、原作では註などで空襲の被害について説明しつつ犠牲者に触れたりしているし、実際に空襲後に被災地へ行ったときには、死体がある状況もすずは目撃している。しかし映画では、時限爆弾が爆発するまでに人が亡くなっている描写はほぼなく、せいぜい鬼いちゃんぐらいだ。生活を覗き見ることで、観客はすずたちを身近に感じていただろう。しかし、死生観は距離が開いたままだったのではないだろうか。時限爆弾の爆発後(敢えてそう書いておく)から、劇場のあちこちで鼻をすする音が聞こえるようになる。涙を流す理由は様々だと思うが、もし「かわいそう」だから、あるいは「戦争って悲しい」というような思いで泣いていたのだとしたら、監督の「1944~45年と2016年はそう遠く離れていない」という、劇場で流れたビデオメッセージに込められた思いはうまく伝わってないのではないかと思う。どうも、劇場の中には「戦争物」を見に来ているような雰囲気があった。

繰り返しになるが、一部のシーンに対して注文があるように、完璧な作品ではないと思うし、広告屋が言うように「百年先まで伝えたい」と臆面もなく言うことにはためらいがある。しかし、人について、世界について、発見するものが多く含まれた良作である。順番は問わないので、原作と合わせて鑑賞してほしい。総合評価はAだ。

 

 

さて、実を言えば小説や漫画が原作の映像作品というのはあまり好きではない。それは、頭の中で「映像化って百パーお金目的って聞いたんですけど!」とゲスニックマガジンの記者が叫ぶからかもしれないし、クリエイターはオリジナルで勝負すべし、というこだわりがあるからかもしれない。あるいは、過去に二度ほど原作を知っていて見たアニメが好きになれなかったからかもしれない(一つは、原作の戦闘シーンのダイジェスト集で、ストーリーがさっぱりわからない代物だった。もう一つは、娯楽作品としては面白かったが、原作が持つ哲学的な意味を台無しにする演出が好きになれなかった)。

結果として儲かるのは構わないが、最初から儲けることばかり狙った作品にはあまり期待できないだろう。原作の方が面白ければそちらだけ読めばいい。そうだとするならば、敢えて映像化、あるいは他の媒体で製作する理由は何だろうか。

一つには、原作の面白さを他の人にも伝えるということがあるだろう。読者、視聴者層が限られそうな作品(ライトノベル、少女漫画、活字媒体など)を普段そういうものには触れない層が見ようとするきっかけになる。特に映画やテレビは媒体が雑誌などに比べて少ないし、視聴できる期間もコミックや文庫よりも限定されているから、話題にもなりやすく、目にする機会は多くなるだろう。その代わり、原作の面白さを伝えることが目的なので、比較的原作に忠実となる。このようなタイプを「翻訳型」としておこう。

もう一つは、原作のある部分を掘り下げる、あるいは別の(主人公の)視点から物語を描く、あるいは少し舞台設定を変えるなど、原作を土台に製作者がやってみたい、面白そうだと思う形式に変えるもの。作り手の裁量は広いが、その分、自分たちで面白さを構築していかなければならない。こちらを「翻案型」とする。

二つの分類は便宜上だ。実際にはどちらかだけの方に当てはまるということではなく、どちらの要素も持っているが傾向としてはどちらかが強いという場合がほとんどだろう。作り手がどのような方向性で作品を仕上げていくかという考えを持つように、見る者も、ある程度はどのような方向性の作品かということは考える。特に、原作のファンであればその可能性が高い。そのときに、作り手の思いと受け手の予想・期待が食い違っていると、作品に対する印象が極めて悪くなってしまう。

関係者は忘れたいかもしれないが、一例を挙げる。かつて宝塚歌劇団で「仮面の男」というミュージカルが上演された。原作はデュマの「三銃士」の続編にあたるもので、ディカプリオが主演で映画化もされていた。ストーリーは原作に比較的近いものだろうと思うが(私は原作を読んでいないので詳しくはわからないが、少なくとも舞台は17世紀のフランスだった)、演出は非常にコミカルなものだった。携帯電話が出てきたり囚人を楽しそうに鞭打つ監獄の所長がいたりと、そのあたりは原作とは絶対に違うだろう。プロジェクターや小道具など新しい試みも行われており、非常に面白い作品だったのだが、公演場所が宝塚から東京に変わる間に、内容が全く変わってしまい、コメディとは無縁の作品になっていた。一部の観客から苦情があったのだろうと思うが、元々がコメディ仕立てだったものを無理に変えたので中途半端な作品だったなあと、二回目を見た時には感じた。

ここから学ぶべき教訓は、観客に間違った期待を抱かせてはいけないということだ。ポスターの雰囲気などから、シリアス路線の作品だろうと思って見に来た客の一部が、作品を実際に見た時にそのコメディタッチに落胆してクレーマーと化したのではないかと、私は考えるが、最初からある程度コミカル路線であるということがわかっていれば、そのようなことはなかっただろう。どうしてもコメディタッチの作品が駄目だという人はそもそも見に来なかったはずだ。作品のイメージに対する広報戦略が適切であったならば、途中で作品の路線を変更するようなことにはならなかったのではないか。結果として作品も中途半端なも人はならなかったに違いない(二回目を見た時にあまり面白く感じられなかったのは私がコメディを見に行こうと思っていたからかもしれないが)。

話を映像化などに戻すと、原作に忠実かどうか、イメージを損ねていないか、と言ったことは問題になりやすい。しかし、どれだけ「翻訳型」を志向して原作に忠実な作品にしようとしても、媒体の変更が伴う以上、原作からこぼれてしまうものは必ず存在するし、各人が持つ原作に対するイメージのすべてに合致する作品を作ることなど、到底不可能だ。なので、受け手に不必要な期待を抱かせず、結果として失望も少なくなりやすいだろうから、私としては、原作に沿った内容にしつつもある程度オリジナルの要素を追加しておく「翻案型」を志向しておいた方が、見る側としても好ましい作品になると思う(スタジオジブリは比較的こちらの傾向が強い)。

原作のどのような点が好きかというのは人それぞれであるだろうと思うが、好きな部分が抜け落ちていたとしても「完全な翻訳はできない」ということを頭の片隅に置きつつ、作品を鑑賞する方が、作品の作り手にも受け手にもいい結果になるのではないだろうか。冒頭に書いたとおり、感性は知識と経験で変化する。原作を知っているかどうかで見方は変わるし、同じ作品も一度目と二度目では見方が大きく変わる。どのような態度で作品を鑑賞するのか、正解があるわけではないが、ガイドはあっても損はない。これだけコンテンツ産業の発達した国なのだから、メディアについての接し方である「メディア・リテラシー」だけでなくコンテンツに対する接し方(「コンテンツ・リテラシー」とでも呼ぼうか)も学ぶ意義があると思う。国語か美術の授業にでも取り入れておいてほしい。