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あおしま文庫

筆者が読んだり見たりした本、映画などについて論じる

誰のために書いているのか 朝日新聞の社説に対して

雑記 新聞 事件

私の家で購読しているのは、時々記事についての言及がある通り朝日新聞だ。好き嫌い以前に他の新聞を購読したことがないので、他紙の購読に切り替えるということはまず考えない。紙の質感だとか、テレビ欄のレイアウトに慣れきってしまっている。同じ朝日新聞でも他の地域で発行されているものは、少しずつ違っていたりするので何となく気持ちが悪いのだが、他の新聞はその比ではないだろう。「ののちゃん」が連載されている限り、たぶん朝日新聞を読み続けると思う。

なので、どうせならいい記事を読みたいというのが、率直な思いだ。少なくとも朝日新聞の編集方針というのは「他人の不幸は蜜の味」ではなく、どちらかと言えば「人道」や「社会正義」「優しさ」といった言葉で表されるのだろう。それは決して悪いことではないと思うのだが、時々がっかりやうんざりさせられる。今日は、そのような記事について改善を求めたい。

この記事を書くきっかけになったのは11月17日付の朝刊に掲載されている社説「いじめの手記 きみは独りじゃない」だ。東日本大震災を機に福島県から避難したものの、避難先でいじめにあっていた子供が手記を公表したことに対する記事だ。その子供に対する呼びかけのような形で記事を書いており、朝日新聞の社説では選挙権年齢の引き下げの時など、時々このように呼びかける形式の社説が掲載される。しかし、私はこのような形式の記事が嫌いだ。理由は三つある。

一つ目の理由は、呼びかける形式をとっていること。普段の社説は、「だ・である」の語尾なのに対して、この形式の記事では「です・ます」調になっており、呼びかける相手をことさらに子ども扱いしているように思える。子ども扱いの何が問題かと言えば、相手を自分とは対等な存在と考えていないからであり、そのため当該の問題に対する当事者意識の欠けた発言や記事となる。結果として問題の本質に踏み込めない中途半端な文章になる。

今年の春に公開されていた「スポットライト 世紀のスクープ」はアメリカのカトリック教会で行われていた児童に対する性的虐待を暴く記者の話だったが、印象的なシーンの一つが事件を告発しようか悩む記者に対して同僚が自分たちも同じような被害に遭っていたかもしれない、あるいはこれから自分の子供たちが同じような被害に遭うかもしれないと気付く場面だ。過度の感情移入は禁物だとしても、目の前の問題を自分のこととして引き付けて考えることができないのであれば、それはもうビジネス以上の何かになることはないのではないだろうか。私は善い報道ではないと思う。

二つ目の理由は掲載場所である。朝日新聞の社説が掲載されているのは、多くの場合朝刊の真ん中のあたり、オピニオン面である。新聞社の意見というのは、社会の中の一つの意見に過ぎませんぜ、というつもりがあってオピニオン面に掲載しているのであれば見上げたものだと思うが、目につきにくい場所には違いない。子供が読むのはテレビ欄と4コマ漫画だけ、などと言っていたのももう昔の話で、今では新聞のない家庭も多いかもしれないが、もう少し掲載場所は工夫するべきだろう。子供向けの記事かどうかにかかわらず、コアな読者層以外にも読んでもらおうという意志を感じない。

商品の展開場所は小売店で働く人間にとっては、最も重要な点だろう。私もある文庫について、人気作だからお客さん勝手に探してね、と高をくくって適当に展開していたら全然売れなくなってしまい、一等地に展開し直したらきちんと売れ出した、という苦い思い出がある。紙の新聞の読者がどのように読むかの追跡調査は難しいかもしれないが、新聞離れが進んでいると思うのであればもう少し頭を働かせて、新聞をあまり読まない人間の心理を想像するべきだろう。普段、新聞を読まない人間が、コンビニなどで一面の見出しを目にする機会はあっても、新聞を開いて中の社説を読むことなどありえない。

三つ目の理由は、呼びかけによって何をしたいのかわからないこと、あるいは呼びかけることで社会を変えようという真剣さが感じられないこと。今回の記事で言えば、いじめに関するいくつかの事実を記し、いじめの原因のいくつかは「大人の社会の問題」だと言ってはいるものの、大人の社会に属するはずの記者と新聞社が「大人の社会の問題」を解決するためにどうこの問題に関わっていくつもりなのか全く書いていない。少なくともこの文章を見る限り、記者と新聞社は傍観者以外の何者でもない。これでは見出しの「きみは独りじゃない」という呼びかけも空々しく聞こえる。「いじめはいけない」という原則論を書いているだけで、いじめは減っていくものだと思っているのであれば、ずいぶんとおめでたい世界観の持ち主だが、まさかそんなことはないだろう。だとすれば必要なのは自身の同情を示すことでもなく、祈りや願いを書くことでもなく、報道機関としてどのように関わっていくかを書くことではないのか。

選挙権年齢の引き下げの際にも、若年層に対して投票を呼び掛ける社説が掲載された。かつてブログのネタにしようと思いつつ没にした記事だが、その社説について書いたものが残っていたので下に引用する。

 

社説での呼びかけ方も良くない。投票に行かないと良くないことが起こるというような論調だ。かつて朝日新聞で連載していた天野祐吉CM天気図では、「これを買わないと悪いことが起きますよ」というような広告はあまり上品ではないというようなことが書かれていたと思うが、この社説がまさにそれに当てはまる。あまり親しみのない人から「何か悪いことが起こるので、そうならないよう行動しませんか」と言われても、気味が悪いだけだろう。まるで、宗教の勧誘のようだ。

 

恐らく若年層が投票に行かないと投票率が高い高齢者優先の政策が決まりやすい「シルバー民主主義」の弊害について指摘していたのだろうと思うが、普段、若者、特に学生向けの記事が大して多くもないにもかかわらず、何かがあった時だけ「若者よ、投票に行こう」などと呼びかけて、読んだ人間が投票しようとでも思っているのだろうかという怒りが爆発したのだろう。若者に何か呼びかけるような社説は、そのような自己満足で終わっていることが多い。

社説で何らかの意見を表明するのは、社会に対して何か良い影響を与えようと思ってのことだろう。特に、呼びかけるような形式の社説はそのような意図が強いはずだ。しかし、私にはそれらの社説は穴に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫んでいるだけに過ぎないように思える。もっと言えば、ただ自慰行為をしているだけの偽善者だ。そうではないというのであれば、以下の三点について検討してほしい。

    取り扱っている社会問題が自分とどう関わっているか。「対岸の火事」だと思っていないか。

    読者に記事が取り扱っている問題を届けようと工夫しているか。惰性的な仕事をしていないか。

    問題の解決を望むのであれば、それに対して自分たちはどのような対価を支払うつもりでいるのか。

もし心ある朝日新聞社社員がこの記事を読んだのであれば、以上3点は上司に問い質して欲しい視点だ。いじめや自殺など心の問題が絡む記事では、どうも「他人事感」が漂ってしょうがないことを憂いている。

 

ちなみに、私の書いているこの文章も、自慰行為でしかないのは重々承知しているが、ソクラテス的な論法により、自覚無くマスターベーションを垂れ流している人間よりは遥かにマシだと思っている。