あおしま文庫

筆者が読んだり見たりした本、映画などについて論じる

編集は難しい 「この世界の片隅に」の映画を見て

前回、原作を取り上げた「この世界の片隅に」の映画を見てきた。平日の午後という時間帯を考えれば、かなり混んでいた方だと思う。以前「ニュースの真相」という映画を見た時にも同じように混んでいたことがあったが、客のほとんどがババア年配のご婦人方だったことからすると、往年のスター、ロバート・レッドフォード目当てだったのだろう(隣に座っていた年寄りは、上映前までやたらと元気だったのに、開始早々すぐに眠ってしまい、終わりまでずっと寝ていた)。ネットニュースの「あなたへのおすすめ」は時々「この世界の片隅に」のニュースが出てきてしまうが(正直鬱陶しい)、流し読みあるいは見出しを見た限りでは主人公の声を担当している「のん」目当ての客が世間には結構な数いるようで、自分が見に行った時に混んでいたのもそのせいかもしれない。予告編を見た時に、これは面白そうだとは思ったが、予想以上の盛り上がりを見せている。

そんなところに水を差すようで悪いのだが、今回見た感想は、手放しでほめられる映画ではないとしか言えない。映像や音楽、出演者の演技等に不満があるわけではなく、それらの点についてはむしろ高評価だが、ストーリーの組み立てについて2、3の問題があった。私は原作を読んだうえで映画を見ているので、どうしても原作との比較で映画を見てしまったため、映画だけでも問題のないストーリー構成になっているかはもう一度見ないと分からないが(そのうち行こうかなと思う)、とりあえず疑問を感じた点をまとめることにする。記憶を頼りに書くので「間違っていたなら教えて下さい 今のうちに」(原作初出一覧より)。また、ネタバレも含むためそのあたりについても了承していただきたい。

  

映画は、大筋では原作と同じストーリーだが、時間の都合だったのだろう、一部のエピソードが削除されていたり、話は出てくるものの省略されていたり編集されているものがある。そのため、一部のシーンで、原作を知らない人には登場人物の行動が理解できないのではないか、と思えるものが出てきてしまっているように感じた。

特に、大きく削除されたのは遊郭の女性白木りんについてのエピソードだ。彼女がどのような存在だったかと言えば、主人公すずの夫周作が昔好きで結婚しようと思っていたかもしれない人物である。そのことを知ったすずは、夫との間に壁を感じてしまうが、そんなときに幼馴染みの水兵水原がすずの家にやってくる。水原はすずの家の納屋に泊まることになるのだが、周作は最後の機会になるかもしれないので、水原と一緒にいてやれとすずを家から閉め出す。納屋で雑談をしたのち、水原はすずを抱き寄せてくるが、すずはそれをやんわりと拒否する。その際に、すずは周作に対する怒りを、水原に打ち明ける。なるほど、自分の妻に他人の男と一晩一緒に過ごせと言う夫に怒りを覚えるかもしれないが、普通そのようなことを言われたら、まずは戸惑うのではないだろうか。伏線として、「夫には他に好きな人がいる、だから、私がどうなっても構わない」とすずが考えそうな状況だと知っていれば、腑に落ちるだろうと思うが、映画ではりんに関するエピソードがほとんど削除されているので、周作がりんを好きだったということはまずわからない。それなのに、観客が「怒り」という言葉に納得するのか、私には疑問だ。

水原がらみのシーンではもう一つ疑問符の浮かぶ場面がある。水原が初めて登場するのはすずが国民学校に通っていた時だが、原作では、その回の冒頭ですずが残り一本しか鉛筆を持っていなかったのに、水原が遊んでいるうちにその鉛筆を失くしてしまう。その日の午後の授業は写生で、早く終わったら帰っても良かったので、すずはさっさと終わらせて家に帰り家事の手伝いをするのだが、その際にいまだに写生が終わっていない水原に会う。余っているからと水原はすずに鉛筆を渡すが、水原は失くしてしまった鉛筆の弁償としてすずに鉛筆を渡したのだろうと想像できる。ところが、映画では水原が鉛筆を失くすシーンがカットされているにもかかわらず、水原は同じように鉛筆を渡してくる。特に謝罪のセリフはなかったので、映画では水原は鉛筆を失くしていないと思うのだが、何故、鉛筆をくれたのだろう。さらに言えば、何故すずが鉛筆がない、あるいは少なくて困っていることを知っていたのだろうか。

(2016年11月18日訂正)水原の初登場時にすずが通っていたのは「国民学校」ではなく「尋常高等小学校」でした。スミマセン。

そもそもいくつかのシーンをカットせざるを得なかった理由は、原作の話の密度が濃く量も多かったからだ。監督としてはどれも好きな話でなるべく多くのエピソードを入れたかったのだろう、削られたシーンは泣く泣く削ったのかもしれないと思う。しかし、なるべく多くの話を入れようとした結果、詰め込むような形になってしまったとも思う。全体の印象としてテンポが速い、というよりも間がなかった。例えば、すずが一時広島に帰省した時に、広島の風景をいくつか絵にかくのだが、それに熱中するあまり、切符を買いに行ったときにはもう切符が売り切れてしまっていて呉に帰れなかったという場面がある。売り切れのことを知らせるのは駅の張り紙なのだが、それが表示されている時間が短いので、観客の多くは読めないのではないかと思う。その場面は笑えるシーンだと思うのだが、劇場では笑いが全く起こらなかった。時間を短くするなら、その分表示されるものも文章ではなく「売り切れ」の単語だけにする、あるいは駅員に「売り切れだよ」と言わせるなどしても良かったと思う。他にも、場面が切り替わるのが少し早く、もう少し余韻があっても良かったと感じた。

以上が問題に感じた箇所だが、個人的な好みで言えば、カットしてほしくなかった部分が一つある。原爆が落とされる日に、この家にいていいのかと悩むすずに対して小姑の径子さんがすずさんに言うセリフだ。原作から以下引用する(読点と読み仮名は引用者が追加した。下線部は傍点)。

「わたしゃ好いた人に早う死なれた。お店も疎開で壊された。子供とも会えんくなった。ほいでも不しあわせとは違う。自分で選んだ道じゃけえね。そのてん周りの言いなりに知らん家へヨメに来て言いなりに働いてあんたの人生はさぞやつまらんじゃろと思うわ。じゃけえ いつでも往(い)にゃええ思うとった。ここがイヤになったらね。ただ言うとく。わたしはあんたの世話や家事くらいどうもない。むしろ気がまぎれてええ。失くしたもんをあれこれ考えんですむ………。すずさんがイヤんならん限りすずさんの居場所はここじゃ。くだらん気がねなぞせんと自分で決め。」

径子さんは小姑なので、すずをいびるようなところがあり、前半もそのような突き放した物言いである。しかし、赤字の部分では、気持ちを素直に表さない彼女なりの優しい気遣いが感じられるので、とても好きなシーンなのだ。が、映画では赤字の部分がほぼカットされているため、彼女がとても冷たい人のように感じられてしまう。先日の朝日新聞の夕刊に載っていた映画のレビューでは、「小姑との確執」だとかなんとか書かれていて、誤解されているなと思っていたが、恐らくその原因はこの場面(あるいはこの場面で誤解を解けなかったから)である。作中で一番好きなキャラでありお嫁に行きたいと思うほど彼女が好きな私には無念でならない。

これまでに書いたように、原作を読んでおかないといくつかのシーンが読み解けない可能性があり、映画だけで独立して観賞することができないため、私はこの映画を手放しではほめることができないと考える。しかし、逆に映画を見ることで原作をよりよく読み込むことができたり、原作では気づかなかったり見落としていたり勘違いしていたシーンがよくわかったりするということもあり、その点は単なるマンガの映像化を超えていると言えるだろう。

例えば、原爆投下後に、木の上に障子戸がぶら下がっているシーンがあるが、私には何故そんなところに障子戸があるのかよくわからなかった。しかし、映画の中でそのシーンの直前に、「回覧板が落ちてるから何かと思えば広島の回覧板で~」というようなセリフを聞いて、広島から原爆の爆発で飛ばされてきたものだったのだと合点がいった。また、クリスマスの商戦や列車の窓を閉めるシーンなどは原作になく、当時の息遣いを感じさせるし、駅名の表示が右から始まる横書きだったことや、空爆の激しさは新鮮な驚きをもたらした。さらに、終戦後の闇市で、残飯雑炊をすずと径子さんが一緒に食べるシーンがある。原作を読んだときには、ただすずと径子さんが一緒に食べているとしか思わなかった(むしろ楠公の落書きの方に視線が行っていた)が、映画では径子さんがすずに雑炊の具を箸で食べさせている。原作を読み返してみればきちんと描かれてはいるものの、やはりマンガは静的なので映像の方が動作がわかりやすいのだなと感心した。付け加えるのであれば、この場面ではよく考えてみればすずは一人で残飯雑炊を食べることができないのであり、他のシーンも含めてちょっとした動作に径子さんの優しさが表れているなと感じた(ので、やはり嫁に行きたい)。

映像ならでは、と言える表現が多くできたのは、原作に対するリスペクトと、原作者や文献に対する丁寧な取材のたまものであり、見事というほかないのだが、やや原作にとらわれすぎたような気もする。見ていて製作者の気分がのっているなと感じるのは、やはり原作に何か追加していたり、内容を少し変えている部分だった。もう少し原作からはみ出しても良かった。

そのためには、先に書いたような整合性のつかない部分を整理し、より強調したい部分を膨らませていく必要がある。ただし、「この世界の片隅に」という作品のテーマが何だったかということを考えると、「日常と地続きの戦争」と「居場所」というのが大きなテーマだった(前者は題材から、後者はタイトルが場所を表す副詞句であることや先に引用した径子さんのセリフなどからわかる)。監督の主な関心、あるいは重視したのは前者だったと思うので、りんに関係するシーンがほとんどカットされていたのだろう。その点はまだいいと思うが、完成作からさらに話を整理するとした場合、あまりシーンをカットしすぎると、戦争が「日常から地続き」のものではなくなってしまう。戦争のにおいがしつつも淡々と日々を生きていくという点が、この作品がステレオタイプの「戦争物」と一線を画す要素だった。一方、安心していられる「居場所」というものを見つけることができなければ、この作品の登場人物はあそこまで強くも優しくもなれなかっただろうと思う。すずにとっての居場所は「呉」であり「北條家」だと思うが、夫との間に少しは雨が降らなければ、地が固まることもなかっただろう。水原退場も一案かと思ったがどうもすっきりしない。もう一度映画を見ながら妙案はないものか考えたい。

結論としては、原作しか読んでなければ映画を見ろ、映画しか見ていなければ原作を読め、どちらにも触れていないならとりあえず原作を読めということに尽きる。

(2016年11月27日更新 二回目の映画を見てきた感想も記事にした。)