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あおしま文庫

筆者が読んだり見たりした本、映画などについて論じる

こうの史代「この世界の片隅に」と「夕凪の街、桜の国」

書評 マンガ アニメ 映画

あまり意識していた訳ではないのだけれど、私はどちらかと言えば作者買いをする方で、中学・高校の頃は谷川流の本を集めていたし、大学生以降は森見登美彦の本を(単行本と文庫を別に数えなければ)全て買った。マンガだと、青池保子久世番子甲斐谷忍などの作品は、読むきっかけになった作品(それぞれ「エロイカより愛をこめて」「パレス・メイヂ」「LIAR GAME」)以外も少しずつ買っては読んでいる(手塚治虫も好きだが、全巻購入は今のところ考えていない……)。そのような買い方をしているため、自分の店で売り上げを確認していると、同じ作者の本でも売れ行きが全然違うことに驚く。どうも、世間では作者買いをする人間、あるいは買い方が多数派ではないような気がする。

ただ、同じ作者の本を集めると言っても誰の本でも買うわけではない。「これは!」と思うような作品と作者にはなかなか出会えないし、好きだったけれど途中であまり面白くないなと思ってしまう作者もいる。好きな作者は、比較的「ハズレ」が少ないが、それでも好みに合わない作品はある。いつも面白いという保証はどこにもない。それでも、新作が出るたびに買ってみようと思えるような作者に出会えるのは余程幸運なことだと思う。

そのような意味で、こうの史代の作品に出会えたことはとても幸運だった。今回はこうの作品の紹介と、上述した作家たちとの共通性、「遊び心」あるいは「ギャグ」について考えたい。

前回も紹介した「この世界の片隅に」は第二次世界大戦前後の広島県(特に呉市)が舞台。広島市郊外出身の主人公すずが呉の北條家へ嫁ぎ、戦争の気配が濃くなっていく中でも営まれる生活が描かれる。「夕凪の街、桜の国」は終戦から10年後の広島に住むある女性と、それから約30年後と50年後の東京に住む女性の姪が心に抱える闇を、それぞれの生活(とその延長線上)の中で描いていく。前者は各回8ページ程度の短い話が続くが、後者は平均30ページ程度の中編が3作収録されている。

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

 

 

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

 

 

この世界の片隅に」の映画を見ようと思ったきっかけは劇場の宣伝だった。ムビチケカードが展示してあるのを見て、あまり見慣れない絵柄のアニメだなと思い興味を持っていたところ、ちょうどその日に見た映画の宣伝で「この世界の片隅に」の予告編が流れた。戦争を題材にしていたことにも多少興味があったが、音楽や作画など作品全体から柔らかい印象を受けたこと、特に主題歌の「悲しくてやりきれない」に惹かれて見てみようと決めた。ポイントの有効期限が近くなっていた(あるいは既に切れていたかもしれないが)劇場近くの本屋で、展開されていた原作が目に入り購入したので私はこの作品に出会うことができた。「夕凪の街、桜の国」は、同じ作者の別の本が読みたかったからだ。

どちらも、文化庁の芸術祭で受賞している作品だが、正直なところ、受賞したから読んでみようと思う人間は少数だろう。作品のことを知るきっかけにはなるかもしれない。しかし、こういった賞の選考基準にはテーマや表現に関わるものが含まれているため、必ずしも一般の読者の嗜好とは一致しない。どちらの作品も、「戦争」と「ヒロシマ」が程度の差はあれ関係している作品だ。作者について知らなければ、そのような問題に興味のある人は関心を持つかもしれないが、敬遠する人は多いのではないだろうか。

私自身、実は戦争物はあまり好きではない。代表的なものは「はだしのゲン」と「火垂るの墓」だと思うが、どちらも見たことはないし、進んで見る気にはなれない。悲愴感漂うような話や戦時中は暗い時代だったというような話は、どうも好きになれないのだ。今回に限って言えば何か義務感のようなものを感じて、戦争物の映画を見なければいけないと思ってしまったし、お手軽に「戦争っていけないよね」ということを確認しようとしていたかもしれない。娯楽作品というよりは、教養作品として観賞しようとしていた――のだが、読んでいるうちにそんな考えはどこかに消えた。とにかく面白いのだ。

どちらの作品も上で懸念したような戦争物特有の悲愴感はほとんどない。決して悲しい話や場面がないわけではないのだが、多くの話はコミカルであり、むしろ、それまでの真面目だったりしんみりとしていたり、考えさせられたりするような雰囲気を台無しにしかねない結末(オチ)が多い。しかし、そこは作者の絶妙な匙加減により作品の描こうとするものを損ねることなくスパイスとして働き、テーマと娯楽性を両立させている。(なお、映画の予告編を見た時の印象では、「この世界の片隅に」の映画は、もう少し「戦争物」としての雰囲気が強く出ている作品のようである。)

また、「この世界の片隅に」は作画の面でも素晴らしい。普段はペンで描くが、場面次第では筆や鉛筆、口紅などを使う画材の工夫や特定の場面の背景を利き手ではない左手で描くなど、表現へのこだわりもすごいのだけれども、一番印象に残ったのはいくつも出てくる風景画だ。斜線、つまり陰影だけで風景を描き切るのは本当に見事というほかない。(作画等についての細かい話は映画の公式アートブックを見るといろいろ面白いことが書かれているので、興味のある方はそちらも見ていただきたい。)

 

「この世界の片隅に」公式アートブック

「この世界の片隅に」公式アートブック

 

 

少年ジャンプなどのスポーツマンガやバトルマンガに比べれば動きのある絵にはなりにくい効果線の使い方やコマ割りであり、手塚治虫のマンガのようにやや古い印象を受けないでもないが、むしろ、フリーハンドで描かれた効果線が独特の雰囲気を生み出し、面白さを増幅させる。個人的には、「楠公飯」の回と「砂糖」の回はツボにはまって何度も読み返しては笑い転げていた。

唯一、残念、というより戸惑ったのが、「この世界の片隅に」の上巻の2話目でいきなり画材が変わることだろうか。上巻の最初の3話は主人公の幼少期の話で4話目から「この世界の片隅に」というタイトルで連載が始まる。幼少期の3話も、「この世界の片隅に」も、上述の通りペン画が基本なのだが、2話目の「大潮の頃」は全編が筆で描かれており、雰囲気が1話目とは全く違う。そのため、これは本当に同じ作品なのかと疑問を抱いてしまった。後の方の話で画材が変わる場合は、大体納得できる理由が見つかるのだが、この話に限ってはよくわからない。初期の試行錯誤の結果なのだろうか。ついでに言えば、「夕凪の街、桜の国」は一瞬、買うのをためらった。何故かって?100ページ程度で800円(税抜)で「この世界の片隅に」よりも薄く高いのである。面白いからいいのだけれど、やっぱりちょっと……。ためらうお値段ではある。

ストーリー、テーマ、作画、語り、どれをとっても一級品だ。総合評価はSとしたい。

 

さて、真面目な主題を扱いつつも、コミカルで温かみのある作品に仕上げているのが、こうの史代のマンガの魅力だと思うのだが、同じように真剣なストーリーを展開させつつあちこちに笑える仕掛けをした作家が、昔から好きだった。

手塚治虫は「マンガの神様」と呼ばれていたがパロディの多い作家だった。自分の作品ではブッダブラックジャック化するし(「つまり私は医者だ」)、他の作家の名前や作品がよく登場する(「ヤッテバチ、ルボーノキサワカ」)。特に赤塚のネタは大好きだったようだ(「わしはこの島の大僧官だがバカ田大学で医学を学んだ‼」)。女性の下半身型メカを登場させたときには局部に黒線を引いたうえで作者キャラが「修正させられた」と泣き言を言い出す始末である。やりたい放題だった。

井上雄彦の「スラムダンク」は現在でも評価が高いし、感銘を受けた人も多いと思うのだが、初期はもっとギャグマンガ調だった。スポーツ路線が本格化してからでも、陵南との練習試合が終わった後に1年生部員が5人しか残っていないことを赤木が告げるシーンにおいて、1年生唯一の眼鏡キャラ石井君が吹き出しの中の手書きのセリフで、「試合中にいなくなった奴もいます…、とんでもねー」というよくよく考えれば衝撃の発言をしているし、単行本の空いたページでは本編を台無しにするような大喜利が展開されている。魚住の「うちには点を取れる奴がいる。オレが30点も40点も入れる必要はない。オレはチームの主役じゃなくていい」という本編のセリフは、そこだけ見れば本当に感動的だと思うのだが、単行本のページをめくれば「話の主役でさえあれば」などと、それこそ「とんでもねー」セリフが目に飛び込む。

るろうに剣心」や藤崎竜封神演義」、前述の「パレス・メイヂ」なども同じような路線だったと思う。それぞれの作者がどのような意図で笑いを入れていたのかは定かではない。あまり真面目ぶった作品だと臭くなりそうだったからかもしれないし、作者の照れの結果かもしれないし、単純に読者を笑わせたかっただけかもしれない。人それぞれだろう。考えても仕方がない。ただし、そのような描き方がもたらす効果を考えることはできる。予想しているものとは、違う路線の話が展開されたときに不意打ちのように感情を動かし、作品に対する印象が強まるのだ。

逆のパターンも存在するので考えてみる。土田よしこの「つる姫じゃ~っ!」や「クレヨンしんちゃん」は普段は感動などするはずもないギャグマンガで、読者・観客もそれをある程度期待して鑑賞するはずだが、ある程度まではその期待に乗りつつ、あるとき突然裏切ってまさかと思わせる展開に引き込む。予期せぬ展開が感動を生む。最初から感動を狙っていたのでは、クレヨンしんちゃんの映画が実写でリメイクされるようなことはなかっただろう。

私自身、今年の春に公開された「怪しい彼女」の日本でのリメイク版で不覚にもほろりとした場面がいくつかあった。志賀廣太郎の顔芸見たさに見に行ったので、そういった心構えが全くなかったことが原因だろう。「悲しくてやりきれない」はその映画で初めて知ったのだが、ちょうどその歌が使われているシーンには不覚を取った。

この世界の片隅に」に戻れば、戦争を主題に据えつつもコミカルに描くことに批判があるかもしれない。娯楽性を重視してしまっては、戦争の実態が伝わらないこともあるだろう。作者自身、公式アートワークの中で、そのことを念頭に置いていると思われる発言がある。しかし、私は、たとえ戦時下であっても、決して暗いばかりの時代ではなかったのだと思う。

例えば、「この世界の片隅に」の中の呉が初めて空襲を受けるシーンで、すずの義父が空襲中にもかかわらず寝てしまうシーンがある。そんな馬鹿な、と思う人もいるかもしれないが、昭和6年生まれの私の祖母も米軍機をやり過ごすために畑の中に隠れたらそのまま寝てしまったそうで、絶対にない話とは言えない。

作品内の話と似たような話ではないが、祖父の戦争中の経験も、後から振り返れば笑い話、というようなことはいくつかあったようだ。戦時中が楽しい時代だったと言いたいのではない。ただ、当時の人も、いつもいつも辛いと思って生きていくことはできず、ちょっとしたことに楽しみを見出しながら、戦争を生き抜いたのではないかと思う。そういえば、イラク戦争の時だったと思うが、前線に向かう兵士がトラックの荷台でポルノを読んでいたのが印象的だった。これから死ぬかもしれないという緊張感はあまりないように見えたが、それは意識的に作っていた雰囲気なのだろう。辛い状況ばかり考えていたのでは精神が壊れてしまい、戦闘どころではない。

悲観的なことばかり考えているわけではないというのは、現在の状況だけでなく、過去の経験についても当てはまることだ。辛かった時の記憶、あるいは心の傷というものは、ある程度の期間が経過すれば、いつも意識の上にあるというものではなくなってくる。人によってはそういう状態になることを「立ち直る」と表現するのかもしれないが、忘れてしまったわけではないので、折に触れてその記憶がひょっこりと顔を出す。「傷口は塞がるが、傷跡は消えない」ものだ。「夕凪の街、桜の国」の、特に広島の女性が主人公の話である「夕凪の街」は、そのような点をよく描写している。しかし、決して忘れることができなくても、普段は何でもないように振舞えてしまう。それが良いのか悪いのかはわからない。ただ、「傷跡は消えないが、傷口は塞がる」とも言えるのだ。

作品がコミカルであるということは、より多くの読者を獲得するために必要な仕掛けだ。本作では、その仕掛けが作品のテーマを損ねることはなく、むしろ人間の性質をよりよく映し、作品のリアリティを高めてさえいるのではないかと思う。やはり、いい作品だ。