あおしま文庫

筆者が読んだり見たりした本、映画などについて論じる

宮崎駿エロオヤジ説を主張する

見に行くつもりだった「FAKE」も「A2」も結局、見に行かなかった。その代わり、10周年記念で上映されていた細田守監督作品のアニメ「時をかける少女」を(別の映画館へ)見に行った。先に原作を読んでおこうと思っていたのだが、夏文庫の山の下に埋もれており、救出は不可能だった。できれば原作との対比なども含めていろいろと考察したいので、今回は映画についての雑感と、予告編で気になった作品を取り上げる。

幅広い年齢性別への支持を取り付けているアニメ監督として、宮崎駿の後継者に細田守を挙げていたのは宇野常寛だったと思う(朝日新聞紙上、違ってたらごめんなさい)が、そのことと、他の記事(こちらは出所を完全に忘れた)を合わせて細田守の後継者候補として新海誠の名前が挙がっていたことは、以前、私も紹介した。なるほど、予告編の中でやっていたアニメは「艦これ」と「この世界の片隅に」であったが、「この世界の片隅に」はともかく(この作品は後で紹介したい)、「艦これ」はどう考えても、宮崎たちの作品よりストライクゾーンが狭い。ドラえもんクレヨンしんちゃんポケモン、コナン、ガンダムエヴァンゲリオンなど、人気アニメは数多くあるが、海外の映画祭などでも評価が高そうな作品となると、先に挙げた3人の監督作品の方が、文学的と言えばいいのか、そのほかの作品よりも先に来るのは間違いないだろう。

しかし、自分が見た作品の中で限定するのであれば、宮崎駿とほかの二人は客層を決める要因について、決定的な違いがある。宮崎駿は「ハウルの動く城」までの作品しか見ていないし、細田守は今回見た作品のみ、新海誠に至っては「小説 君の名は。」を読んだだけで映画は全く見ていない(そう、「君の名は。」はまだ見ていない。これほど流行るとは思っていなかった。夏文庫のフェアが届いたころには、自分だけが小さな宝物を見つけた気分だったが、映画公開以降の勢いを見ていると、見知った人間がどこか遠くへ行ってしまったような気さえする。まるでハルヒの再来を見ているかのようだ)。なので、もしかしたらこれから書くことは「ポニョ」や「風立ちぬ」には当てはまらないのかもしれないが、一応、書いておく。

宮崎と二人の違いとして私が考えているのは、主題、特に「恋愛」というテーマの選択についてだ。「恋愛」だけが主題というわけではないが、「時をかける少女」にしても、「君の名は。」にしても物語の中心として「男女の恋愛」というのは外せないテーマだろう(私は、同性愛と両性愛の表現を否定しないが、異性愛者が多数派だという事実から、同性間の恋愛は映画内で取り扱われないと、以下でも考える)。どちらも、主役の二人を同性にしてしまった場合に、不要な描写、成立しない場面がとても多い。「時をかける少女」では、主人公の周辺で起こる色恋沙汰に関してタイムリープを繰り返すし、「君の名は。」では冒頭の入れ替わりが男女間で起こったのでなければ、それぞれに対して強い印象と違和感を残すことができなかっただろう。今の設定では二人は田舎と都会に住んではいるもののそれぞれ現代の日本に住んでいるが、もし二人が同性だったのであれば住んでいる国が違ったり生きている時代が違うなど、二人がより遠い存在であるような設定に変更しなければならなかったに違いない。どちらの作品でも、大幅なストーリーの変更が必須だ。

それに比べると、宮崎駿の作品では主役二人を同性にしてもそれほど違和感がないように思う。主役二人の間に成立する関係が恋愛でなく友情だったとしても、別に構わないと思えるような作品が多い。あるいは、恋愛についての描写が淡泊と言えばいいのか。主人公たちが恋愛について悩んでいる様子はほとんどない。悩むべきはそれよりも、生命の危険や世界の行く末という話ばかりだ。恋愛よりも興味のあることが、それぞれの主人公にはあった。

唯一、例外と言えそうなのが「ハウル」で、偏見であることを自覚したうえで言うと、主人公が男性だった場合、ハウルに見捨てられたのではないかと思う。序盤のあらすじを忘れてしまっているので、そんなイメージを持つだけなのかもしれないが、男性というのは助けられる対象ではないというイメージが世間に広く流布している。「北斗の拳」において、男性がゴミ屑同然に死んでいく場面は何度となくあるが、女性が無残に、少なくとも秘孔を突かれたことで破裂するような死に方をしたことは、一度としてない(はずだ)。男性には自活するか、さもなくば野垂れ死ぬかの選択しかないらしい。男性の扱いに対しては同情の余地を禁じ得ないが、ソフィーのポジションに就けるのは、愛らしい動物かせいぜいカカシが限界で、爺さんの入り込む余地はない。(なお、男性の方が実際に犯罪の被害に遭いやすいという研究もある。興味のある方は以下を参照していただきたい)

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

 

↑翻訳はやや読みにくいが面白い

話が逸れたので元に戻すと、主人公には恋愛以上に興味のあるものがあった。空を飛んでラピュタを見つけるとか、空を飛んで立派な魔女になるとか、豚になっても空を飛ぶとか、大体は空を飛ぶことだった(他にもあるが)。宮崎駿自身が絵を描いてそれを動かすことと、空を飛ぶものに夢中だったからだろう。前者については三鷹の森ジブリ美術館の展示内容を、後者については作中の飛行シーンの多さを見れば何となく伝わってくる(余談だが、三鷹の美術館はアニメーターあるいはアニメ業界志望者が行く場所であって、ミーハーとクソガキの行く場所では断じてない)。男女を二人にして放っておけば、後は勝手にくっつくだろうとでもいうような、ある意味ではエロオヤジのような思考回路が、宮崎駿の作品には組み込まれているように感じる。製作者は、恋する二人は見守る対象であって同化する対象ではない、というスタンスをとっているように、私には見えるのだが、あなたはどうだろう。残念ながら、私はカンタやトンボにはときめくことができそうにないが、彼らの行く末が幸せであることを祈ろうとは思う。

恋愛の成分が薄くなった結果、恋愛なんて関係のない小学校就学前の子供に対しても宮崎駿の作品は広く好まれるようになった。さらに言えば、宮崎の作品には「子供」に対するまなざし、特に好奇心などについてある種の理想を見出すようなまなざしがあった。スピルバーグも同じようなものを持っている。それに比べると、「時をかける少女」も「君の名は。」も、子供は作品の中からも、外からも排除されている。それぞれの作品の恋愛についての向き合い方が違うのは、アニメはだれが見るものか、という問いに対する時代の変化も、ある程度は反映されているのかもしれない。

話の作り手は大体の場合、「大人」であり、「子供」というのはほぼ必ず他者である。その「子供」に対する視点を持っているということは、つまり少なくとも一つは他者に対する視点、自分以外のものに対するを持っているということであり、その分、作品の世界は広がる。細田守の作品も、「時をかける少女」以降、子供も対象年齢に含まれる方向にシフトしているのではないかと(作品を見たことはないが、書籍化された商品の表紙などから勝手に)考えているのだが、それは子供が決して「大人」に対して劣った存在ではなく、侮れない「他者」だからなのかもしれない。

コンテンツが少なかったころのようには、誰もが見たり聞いたりしたことのあるという作品を作るのは難しいかもしれない。しかし、もしそのような作品の条件の一つが上に書いたようなことだとするのであれば、それとは反対の作品というのは自分自身にしか興味のない作り手が作る作品であり、それはもう自慰行為に他ならない。

市場が細分化されてきているため、ニッチな顧客層を狙ったコンテンツは、近年ますます増えつつある。対象年齢が広いものは売れないのかもしれない。しかし、それでもより多くの人に届けようとする作り手の姿勢は忘れてはいけない。今回、考えたことは私自身も反省しなければならないと思う。

 

最後に紹介するのが、11月12日から公開予定の「この世界の片隅に」。第二次世界大戦前後の時期の呉市を舞台に、一人の女性を中心に物語は進む。 

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 

 映画館から出て少ししてからタイトルを忘れたために、近くにあった書店で上巻のみを買った。残りは自分の勤務している店で買おうと思ったら、上中下の三巻構成の作品で一緒に送られてきたにもかかわらず中巻のみを返本し、上下巻を棚に並べるとんでもない店だったので、残りはまだ購入していない。全体の評価は全巻読んでから書こうと思う。ただ、戦時中でありながらささやかな日常の幸せと笑いを描く良作だ。上巻では主人公はまだ戦争の被害を直接は受けていないが、これからどのような話の展開になるのか気になっている。気になった方は書店で手に取ってもらいたい。

ただし、注意するべきはこの本は前後巻か、上中下巻の形式で販売されていることである。上下巻のみ置いてあるような本屋は、中巻だけ売り切れたか、よく見ず返本している可能性がある。注意されたい。