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あおしま文庫

筆者が読んだり見たりした本、映画などについて論じる

森達也「FAKE」

映画 ドキュメンタリー

小説が二回続いた。おまけにどちらもカドフェスの対象商品の本だ。次は傾向を変えてライトノベルでも取り上げようかと思った。「Re:ゼロから始める異世界生活」や「血翼王亡命譚」は予想以上に面白かったのだ(ライトノベルを侮っていたからというのは多分にあるが)。しかし、それぞれMF文庫J電撃文庫であり、結局はKADOKAWAの小説だ。これ以上、この会社に媚を売る必要はない。そこで、次は映画を取り上げることにしたのだが、その時点で最後に見たのが「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」。

 映画の配給は、まさかのKADOKAWA。……やめておこう。今回は、その後に見た森達也の「FAKE」を中心に取り上げながら、ドキュメンタリー映画について、感じること、考えることを書いていく。

話の中心になるのは、2014年に「ゴーストライター問題」でバッシングを浴びた佐村河内守。監督の森達也は、佐村河内守に対して取材を申し込み、彼と家族(妻と猫)を撮影しながら、彼を訪れるテレビ局スタッフの番組出演依頼や海外のジャーナリストからの取材の様子、出演依頼を断った「ゴーストライター問題」をネタにしたバラエティ番組や、その番組にも出演していたこの問題が世間に発覚するきっかけを作った新垣隆などにもカメラを向け、問題の本質を探っていく。

実は映画を見たのは7月の中旬。(遊ぶのに)忙しかったから、ということもあったが、この映画の評価を今まで書けなかったのは、何を書いていいのか判らなかったからなのだろう。何も思いつかなかったからではなく、考えることが多すぎた。この映画が映すものから見えてくる社会問題は、多岐にわたる。その点は、創作物ではなかなか味わえない、ドキュメンタリーならではの醍醐味と言えるだろう。

その中から、敢えて一つ挙げるとするならば、この問題、および多くのゴシップ記事は、ほとんどの人にとって「どうでもいい」話題だった。少なくとも、この騒動が生活や人生を大きく左右するような問題だったという人はほとんどいないはずだ。「どうでもいい」ものに対して、人間はどこまでも冷酷になれる。そのような存在は「消費」あるいは「消耗」「酷使」の対象となっていく。騒動の発端となった週刊誌の記事を書いた、作家の神山某がこの映画について書いた文章からは、神山にとってはこの騒動すら、ニュースのネタとして「消費」する対象だと考えていたように、私には思えてならない。

他人を使い潰していくことを続けていけば、いつか自分自身も使い潰されることになる。それはニュースを「消費」していくメディア自身にも言える。そこから脱却して、佐村河内夫妻のように使い潰さない関係を築いていくか、これはコミュニケーション手段の発達した現代では誰もが抱える問題なのではないか。

唯一、あまり評価できないのが、エンターテイメント性に欠けていたことか。劇場内で笑いが起きたのは、佐村河内家の猫が映るシーンと、新垣隆がファッション雑誌の企画やバラエティ番組で壁ドンをさせられていたシーンぐらいだろう。必ずしも笑いがなければいけないとは思わないが、佐村河内家の中が暗いこともあって(守氏が光に過敏だからということのようだ)、見ていると気分も暗くなってくる恐れがある。

書くのが面倒くさいから、ということで作品の内容についてはもう触れないことにする。さらに言えば、私が書くものを読むよりも作品を実際に鑑賞してそこから感じるものを大切にした方がいい。この映画はそれだけ、多くのものを含んでいる。作品の評価としては、エンターテイメント性の部分をマイナスしてAとする。

余談だが、私が見に行った映画館では同じ監督作品の「A2」と一緒に再演が、家族の住んでいる地域の映画館でも上映が近くされる予定であり、中小規模の映画館ではそこそこ注目されているようである。

 

さて、ドキュメンタリーあるいは教養番組あたりまで含めて、いわゆるフィクションではない映像作品について考えたい。去年の10月にナチス関係の映画を続けて見てから、映画を見る機会がそれまでに比べて格段に増えた。意識して選んでいるわけではないが、見た作品のジャンルとしてはドキュメンタリー映画、あるいは実話を基にした作品を見ることが多かった。その中でも、「みんなのための資本論」と「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」の二つは、とても面白い作品だった。

 ↑残念ながら現在日本語版のソフトは販売されていない(そもそも吹替はないが)

私は、この二つをドキュメンタリー作品と考えているが、アメリカ発のこれらの作品は、それまで私がドキュメンタリー作品に対して持っていたイメージを覆した。その点に関して言えば、「FAKE」は日本のドキュメンタリー作品の枠からは脱していないように思えたので、今回、対比をしてみたい。

和歌山県太地町のイルカ漁を題材にした作品でも問題になっていたが、日本において「ドキュメンタリー」という作品ジャンルでは「記録」つまり「創作ではないこと」が過度に重視されているように思える。「ドキュメンタリー」が「事実を記録した(作品)」を意味する以上、ねつ造や虚偽の内容を含めることは論外だが、「記録映像」でも編集の仕方によっては、十分エンターテイメント性を持たせることは可能だ(例えば「私は女性が活躍できる社会にする」などと公式の場で発言している政治家の映像の後に、内輪の政治パーティーでは女性蔑視の発言を連発している様子を流すような、言っていることとやっていることの矛盾を映すことなど。前述の二つの映画はこのような場面が多い)。NHKの「NHKスペシャル」に代表されるような記録性、あるいは真実(の一部)に迫っている、という点では高く評価されるが、娯楽性はほとんどなく、結果として見るのはごく一部の人間だけ、といった作品がドキュメンタリーでは多いのではないか。

さらに言えば、見せ方次第で事実の評価の仕方はいくらでも変わるものだと思うのだが(実際に、「FAKE」では佐村河内守に関する話題で、取り扱っていないものもある)、そのことを前面に出さず、記録にこだわりましたよ、という体裁でいるのはかえって真実の一部分しか伝えていないという点で問題だ。これは他のメディアについても、メディアリテラシーの問題としていえることだが。

では、娯楽性を求めるとどうなるかと言えば、新垣隆が出演していたバラエティ番組のように、政治や社会の問題はただの「ネタ」でしかないような番組ばかりになる。風刺画などは、まだ社会的なテーマを扱っており面白く考えさせられるものも(そうではないものも)あるが、映像に関してはほとんど見たことがない。

娯楽性がなければいけないのかと言えば、そんなことはないが、どれだけ優れた作品でも、見てもらえなければ、その価値は減じてしまう。また、真剣なテーマだからと言って、必ずまじめに、あるいは笑いなど全く起こる余地のない静謐な作品ばかり作らなければならないということもない。商業性と芸術性をある程度まで両立させることも、重要なことではないか。少なくとも、現在のドキュメンタリー作品はもう少しユーモアを含ませてもいい、ということを上記2作品を見て私は考えた。

自分自身がテレビや映画をそれほど見ないから、ということはあるものの、唯一娯楽性とテーマ性を兼ね備えていると感じられるのはNHKの「ブラタモリ」である。町、土地の歴史を掘り起こすというテーマのもとに、タモリと出演者のコミカルなやり取りを交えながら進行するこの番組は、かなりの良作だろうと思う。惜しむらくは、現時点での政治・社会的な問題は扱っていないことか。この番組で扱う必要は全くないが、同じようなスタンスで、歴史だけではなく政治・社会問題に取り組むような番組・作品があればいいのに、と思うが、政治がほぼタブーと化している今の日本では、難しいのだろう。それでもいつの日かはお目にかかりたいと思う。

 

前回の更新から二カ月以上が経過しており、映画を見た時の記憶があまり残っていない。しかも、明日には再演を見に行く予定だ。遅すぎる。こんな、やる気のないことが見え見えの筆者が、「いつの日かお目にかかりたいと思う」などとほざいても何の説得力も持たないことは明白だが、次回の記事はもう少し早く更新したいな、と思う。できれば、来週ぐらいには……。