あおしま文庫

筆者が読んだり見たりした本、映画などについて論じる

私は厳罰を望まない

 本来、ここでは書評を中心に記事を書こうと思っていたので、時事問題はあまり取り上げないつもりでいた。しかし、大きな事件が起きてしまったこと、そして、それに対する世間の反応として不快なものが予想されるので、今回記事を書くことにする。多くの人の目に触れれば、きっと炎上するような記事になるのだろうが、それでも書くことにする。

 2016年7月26日に相模原市の障害者施設で、多数の死傷者が出た事件について、恐らく、今日の夕方のニュース番組や明日の新聞の社説では、犯行に対する憤りとやらが表明されるだろう。来週か、早ければ今週後半の週刊誌では事件についての記事が出るかもしれない。犯人の人格について否定するような、あるいは家庭環境や生育家庭などで問題があったことを取り上げるような記事も載るのだろう。犯人に対する厳罰を望む声はきっと上がる。だが、私はそれに反対だ。少なくとも、事件発生の原因究明を伴わずに刑罰が執行されるようなことには強く反対する。

 殺人事件に対する不快感、事件が二度と起こらないように願う気持ちは、正当なものであり、決して否定されるべきではない。しかし、犯人に対するありとあらゆる言説が正当化されるかと言えば、そうは思わない。そのような発言をする人間に対しては、「自分も犯人になっていたかもしれない」という危機感が全く足りない、と指摘したい。

 少し前に、勤務先の店で「人を殺すような奴に人権はない」と職場の人間が話していた。アメリカでの銃の使用のニュースに触れての発言であったが、私にはどうも納得ができなかった。私が勤めているのは郊外の書店であり、従業員の多くは自動車での通勤だ。殺意を持って事故を起こすことはないだろうが、過失で人を殺してしまう可能性が絶対にないとは言えない。実際に、過失や責任が全くない場合でも事故を起こしてしまうことがありうると、私は自動車学校で聞いた。鉄道事故のほとんどは、運転士に責任や過失はないだろう。それでも、予期せぬ殺人者になってしまう可能性が、今の社会では決して低くはない。

 また、自分の暮らしているのが、今の日本のようではなく、内戦中のシリアのような国だったとしたらどうだろうか。あるいは、第二次大戦中に生きていたとして、自分が徴兵されていたら。本当は殺したくないとしても、撃たなければ死ぬ、という状況下で、どれだけの人間が平和主義者でいられるだろう。歴史を振り返れば、その社会では普通だと思われる多くの人間が虐殺に加担するような状況は数多くある。現在の日本で殺人を犯す人間の数は、そうではない人よりもはるかに少ないとはいえ、殺人犯が皆、異常な人間かと言えばそうではない。「自分は普通の人間だから殺人など絶対に犯さない」という保証はどこにもない。

 普通だったはずの人間が、殺人犯になるまでには必ず何らかの原因と経過がある。その要素はそれぞれに違うとしても、原因を特定し、それに対して対策を施していくことは、殺人まで発展しない事件や諸問題の解決につながるのではないか。

 私が強い関心を抱くのは、被害者も加害者も自分にとって他人ごとではないからだ。まず、加害者についていえば、犯人は事件のあった障害者施設の元職員で、障害者のケアをしていた。私の以前の職は塾の講師や家庭教師であり、ある意味では生徒という「勉強についての障害」を抱える人間をケアしていた。今の書店員も、「商品の知識に対して何らかの障害」を持っている客のケアをしていると言えないこともない。全ての生徒や客が酷い人間だったというわけではないのだが、中には不快な思いをする相手がいる。どちらにも責任がなくとも、嫌な気持ちになることもある。対人サービスというのはストレスを抱えやすい仕事だ。待遇も必ずしも良いとは言えない。今回は障害者施設だったが、老人ホームなども対人ケアの職業という点では同様だ。今年の2月にも老人ホームの元職員が、入居者をベランダから投げ落としたという事件で逮捕されている。事件の原因に共通する部分もあるのではないか。事件のあった施設に特に問題がなくとも、業界、ひいては社会全体の問題として、ケアをする人間の負担をどう減らす、あるいは分散させるか、また、ケアをする人間に対するケアをどのようにしていくか、ということを考えなければならない。

 また、自分自身、あるいは自分の家族も老人ホームへの入居、あるいは認知症などで介護が必要にならないとも限らない。そんなときに、自分をケアしてくれる人間が同じようなことをしないという保証はどこにもない。介護殺人がそれなりの頻度で起こっている以上、絶対にないなどとは言えない。殺害、あるいは暴力と言わなくても、思わず手を上げてしまった、ということはあってほしくはないが、多くの人間がしてしまうだろう。

 今回の事件は犠牲者の数から言っても、めったに起こることではない。しかし、小規模なものであれば、先ほど挙げたような介護殺人のように、誰にでも起こりうることであるとは十分言えることだ。その点を忘れて、加害者の特異性ばかり強調することは、社会にとって何の益もない。

 多くのメディアは被害者に対して哀悼の意を表明するだろう。しかし、それで終わらせてしまい、事件の背後に潜むものを探ろうとしなければ、ただの野次馬だ。それどころか、厳罰、つまりは死刑を望むような世論を煽る言説は、刑罰によって問題が解決するかのような誤った印象を与えかねないという点で、大きな害悪だ。それよりも、原因の究明を優先すべきである。結果として裁判で厳罰が下されることもあるだろうが、あくまで、ゴールは類似の事件の再発防止であって、懲罰ではない。それでも、加害者特異説を展開するのであれば、それは自慰行為であるという自覚を、メディア各社の担当は持ってほしい。

 

 犠牲者のご冥福を、と書くのは簡単だが、どうも、嘘くさい、あるいは心がこもっていないのではないか、と新聞記事のコラムなどを見て思う。ただ、同じような事件が二度と起こることのないように、とは心の底から思う。