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あおしま文庫

筆者が読んだり見たりした本、映画などについて論じる

小説 君の名は。

 どうせ書いても全く読まれないだろうと思っていた前回の記憶屋の書評だが、意外なことに、ほんの少しアクセスがあった。やはり、取り上げた作品が夏の文庫のフェアに登録されているからだろうか。勤務先の書店の売れ行きなどを見ていると、アニメ化の作品などもアニメ化が決定した直後や放映開始時よりも、放送開始後、ある程度たった頃から売れ出すようになる。書評を書いておいてなんだが、「所詮、他人の評価なんて当てにならなくってよ、衝動買い上等!」と私は考えてしまう性質なので、失敗を忌避しようとする他人の購買傾向に歯がゆいものを感じる。

 しかし、考え方によっては、それだけ、「広告」というものが信用されていないということなのだろう。少し、気になって手持ちの文庫(と言ってもほとんどライトノベルだが)のうち、中学や高校生の頃(今から10年以上前だ(笑))に購入した作品の帯を確認してみた。新人賞の受賞やアニメ化、映画化についての告知はさすがにしてあるが、後は作品の内容紹介ばかりだ。作中のセリフが一行、作品についてのコメント(紹介)が一行というものが多い。それに比べると、現在発売されているものには著名人や、他の作家のコメントがとても多い。「あの人が面白いと言っているんだ、(だから買っておくれよ!)」という下心が透けて見えるようだ。内容を紹介しないのは、作品自体の魅力があまりないからだとも考えてしまう。そんな宣伝をしているから、読者も購買に慎重なのだろう。もう少し、広告の担当者は工夫するべきではないか。さもなければ、NHK(の中にあるはずのゲスニックマガジン)が取材にやってくる日も近い。

 前置きが長くなったが、今回紹介するのは「小説 君の名は。」前回に続けてカドフェスに登録されている作品だ。紹介したときにブログが読まれやすいものを、という選び方をしていないと言えば嘘になる。ただ、どうせ書くなら映画公開前に、と思ったのも事実だ。

 作品は8月26日公開予定の映画を原作とする本、と言っていいのか。映画が完成する前に小説は出版されているので、ノベライズとは言いにくいものがあるし、最初の企画は映画から始まっているので、原作本というのも、正直、違う気がする。著者は、映画の監督本人。それぞれの作品は小説版、映画版と考えるのが良いだろう。

 主人公は二人の高校生。それぞれ全く別の場所で暮らしているのだが、ある日、別人の人生を歩む夢を見る。最初は夢と思っていたのだが、何度も夢を見るうちに、夢を見ている間に元の自分が、自分自身も知らないことをしており、自分は他の誰かと入れ替わっているのではないかということにお互いが気づく。相手に対し、不平不満を言いつつも、別人の人生を過ごすことを楽しみ始めた二人だが、実はこの入れ替わりには秘密・理由があり……、というのが中盤あたりまでのあらすじ。

 読んでみようと思ったきっかけは、店頭で公開されているプロモーションビデオだ。他の誰かと入れ替わる、という部分に何となく惹かれた。本を読むということが好きな理由の一つに、他人の人生を覗き見たいというスケベ心があるのは間違いない。惹き付けられたのはそのスケベ心だろう。同じようなスケベは、勤務先の店の客には結構いたらしく、カドフェスの本の中では一番売れていると思う(確認はしていないが)。中高生が比較的多い店なので、買っていくのは多くが学生だ。

 余談だが、馬券を買った人間がレースを見ているときの心境はこんなものなのかな、と思う。新しく発売される商品で、同じ作者の既存の作品は(紹介文では高く評価された、と書いてあるが)それほど売れたわけではなかった。映画化されるとはいえ、映画化作品でもそれほど売れない作品も、半年程度の間にそこそこ見てきたので、絶対に売れるとは言えなかったが、学生向けの作品だろうと思いとりあえず賭けてみた。結果は今のところ順調だろうとは思うが、残りの在庫が不良在庫、つまり外れ馬券に変わらないとも限らない。ある日を境に全く売れなくなることもある。そのため、売り上げ実績を確認しているときには「行けっ」「売れろっ」と、客がレジまで持って来たときには「よっしゃあ!」と心の中で叫ばずにはいられない。

 さて、作品の評価について考える。文章についていえば、やや、ページの空白が多いなと思う。しかし、高校生の独白や高校生同士の会話の再現、あるいは作品に良いテンポを生み出すという結果からすると、これは、むしろ肯定的にとらえるべきものだろう。唯一不安なのは、主人公のうちの一人が住んでいるのは飛騨地方ということになっているが、そこで使われている言葉が不自然かどうかだ。ただし、私は飛騨の言葉については詳しくないので、この点について違和感はない。

 ストーリー展開や舞台設定については申し分ない。話のつかみ、中盤以降の謎の解明とその後の展開、最終盤に向けた冒険などよくできていると思う。イメージを一言でまとめるならば、「ひと夏の冒険」だろうか。実際には夏から秋にかけての話ではあるが、少年時代にしか味わえない高揚感と疾走感を巧みに切り取っていると思う。イメージの近い作品としては、映画「ジュブナイル」や「学校の怪談」、ドラえもんクレヨンしんちゃんの映画作品などが思い浮かぶ。細かい設定でも、神事の内容に口嚙み酒など、どこで調べてきたのかと思うような面白いものが使われており、「どこにあるのかは知らないが、どこかにあるかもしれない」と思わせるような舞台を構築している。

 かなりの良作だと思う。それだけに残念なのが、ややパンチに欠けるというか、淡白というか、癖が少ない。これを書きたい、という作者の強烈な意思をあまり感じなかった。もしかしたら、映画ではこれが画面上に表れているのかもしれないが、少しだけ物足りなさを感じた。その点については、後でもう少し考えたい。

 エンターテイメント作品としては文句なしだろう。総合評価はA⁻だ。

 

 

 物足りなさを感じた点について考えてみる。読後の感想として最初に出てきたのは「面白かった」なのだが、そのあとには「で、結局何の話だったんだ」と思ってしまった。テーマ、という言い方で片づけてしまうのは良くないが、この作品のテーマがわからなかった。別の言い方をするなら、作者に対して「この作品を書くことで結局何がやりたかったのですか」という問いをした時の答えが全く想像できなかった。自分の読解力が足りないからだ、と言われればそれまでなのかもしれない。また、読み終わってしばらく経過した今なら、「青春や、少年少女の成長を描く」、あるいは単純に「面白い話を作りたかった」だけなのかもしれないとも思う。

 ただ、作品を貫く問題意識というものはなかったように感じる。問題意識、と聞くと社会に対して抱く主張のような何か高尚なものに思えてしまうが、別にそんなものではない。「紅の豚」のVHSケースの裏側には、「カッコイイとは、こういうことさ。」とあるのだが、これが象徴するように、「紅の豚」で宮崎駿(と製作スタッフ)がやりたかったのは「カッコイイ男を描くこと」で、問題意識(あるいは製作者の関心というべきだろうか)は「どうすれば登場人物をかっこよく描くことができるか」ということに尽きるのではないだろうか。

 作者自身があとがきで書いているように、もともと小説版を書くつもりはなかったようで、それが作品に反映されているようにも思う。結果的に映画では十分に反映されない、あるいは映画の制作だけではあまり深く考えていなかった主人公の心情について、小説を書くことで整理・発見できたということだが、それならば、もう少し映画では描かれないが存在するはずの場面における主人公の心情を掘り下げるということもしてよかったのではないか。ページ数にはまだ余裕があるし、後日譚の部分はもっと長く書くという選択もあった。映画完成後、作者にもっと他の部分を細かく書きたいという欲望が芽生えてくるのであれば、改訂版という形で加筆したものを出しても良いと思う。

 個人的な趣味からいえば、主人公二人の社会との接点についてもう少し描いて欲しかった。二人の主人公は必ずしも家庭環境に恵まれていない。少なくとも、問題は抱えている。また、家庭以外での人間関係でもちょっとしたトラブルを抱えていたりするのだが、そういった問題を解決するのはお互いが入れ替わっているときで、描写はほとんどない。あるいは、問題は解決することなく時間だけが経過して終わっている。最初は高校生の社会関係なんてほとんどないようなものか、とも思ったが、それほど広くはなくても、いや、むしろ広くないからこそ苦しい人間関係があり、その切れ端は垣間見ることができるのだが、描写の分量、方法としては十分とは言い難い。青春の輝きは描いているが、苦みがないのだ。

 何で読んだのかは忘れたが、作者の新海誠のことを「ポスト宮崎駿とされる細田守。そしてポスト細田として注目を集める新海誠」というような紹介をしていたものがあった。宮崎駿は前述の「紅の豚」に限らず強烈な自己主張があったように思う。それは作品に限らず三鷹の森ジブリ博物館などでも、強く出ていた。そういった部分があるからこそ、海外でも作品の芸術性が評価されるのだろうし、長期間に渡って視聴され続けているのではないだろうか。先ほど、言及したジュブナイル学校の怪談は、決して悪い作品ではないのだが、今の小中学生のうち、どれくらいが知っているのだろう。ポスト宮崎駿になるためには時代の変化にすら耐えうるような作品を作っていかなければならないはずだ。芸術とは(日本ではあまり浸透していない理解だと思うが)自己表現ということに尽きるらしい。公開予定の映画は、新海誠監督の強烈な個性が発揮され、時間の重みにも抗う作品であることを望む。

 

最後にもう一つだけ。せっかくタイトルが「君の名は。」だったのだ、口語っぽくなくても「君の名前は」ではなく「君の名は」と作中で使ってもよかった、というか使って欲しかった。