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あおしま文庫

筆者が読んだり見たりした本、映画などについて論じる

森達也「FAKE」

小説が二回続いた。おまけにどちらもカドフェスの対象商品の本だ。次は傾向を変えてライトノベルでも取り上げようかと思った。「Re:ゼロから始める異世界生活」や「血翼王亡命譚」は予想以上に面白かったのだ(ライトノベルを侮っていたからというのは多分にあるが)。しかし、それぞれMF文庫J電撃文庫であり、結局はKADOKAWAの小説だ。これ以上、この会社に媚を売る必要はない。そこで、次は映画を取り上げることにしたのだが、その時点で最後に見たのが「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」。

 映画の配給は、まさかのKADOKAWA。……やめておこう。今回は、その後に見た森達也の「FAKE」を中心に取り上げながら、ドキュメンタリー映画について、感じること、考えることを書いていく。

話の中心になるのは、2014年に「ゴーストライター問題」でバッシングを浴びた佐村河内守。監督の森達也は、佐村河内守に対して取材を申し込み、彼と家族(妻と猫)を撮影しながら、彼を訪れるテレビ局スタッフの番組出演依頼や海外のジャーナリストからの取材の様子、出演依頼を断った「ゴーストライター問題」をネタにしたバラエティ番組や、その番組にも出演していたこの問題が世間に発覚するきっかけを作った新垣隆などにもカメラを向け、問題の本質を探っていく。

実は映画を見たのは7月の中旬。(遊ぶのに)忙しかったから、ということもあったが、この映画の評価を今まで書けなかったのは、何を書いていいのか判らなかったからなのだろう。何も思いつかなかったからではなく、考えることが多すぎた。この映画が映すものから見えてくる社会問題は、多岐にわたる。その点は、創作物ではなかなか味わえない、ドキュメンタリーならではの醍醐味と言えるだろう。

その中から、敢えて一つ挙げるとするならば、この問題、および多くのゴシップ記事は、ほとんどの人にとって「どうでもいい」話題だった。少なくとも、この騒動が生活や人生を大きく左右するような問題だったという人はほとんどいないはずだ。「どうでもいい」ものに対して、人間はどこまでも冷酷になれる。そのような存在は「消費」あるいは「消耗」「酷使」の対象となっていく。騒動の発端となった週刊誌の記事を書いた、作家の神山某がこの映画について書いた文章からは、神山にとってはこの騒動すら、ニュースのネタとして「消費」する対象だと考えていたように、私には思えてならない。

他人を使い潰していくことを続けていけば、いつか自分自身も使い潰されることになる。それはニュースを「消費」していくメディア自身にも言える。そこから脱却して、佐村河内夫妻のように使い潰さない関係を築いていくか、これはコミュニケーション手段の発達した現代では誰もが抱える問題なのではないか。

唯一、あまり評価できないのが、エンターテイメント性に欠けていたことか。劇場内で笑いが起きたのは、佐村河内家の猫が映るシーンと、新垣隆がファッション雑誌の企画やバラエティ番組で壁ドンをさせられていたシーンぐらいだろう。必ずしも笑いがなければいけないとは思わないが、佐村河内家の中が暗いこともあって(守氏が光に過敏だからということのようだ)、見ていると気分も暗くなってくる恐れがある。

書くのが面倒くさいから、ということで作品の内容についてはもう触れないことにする。さらに言えば、私が書くものを読むよりも作品を実際に鑑賞してそこから感じるものを大切にした方がいい。この映画はそれだけ、多くのものを含んでいる。作品の評価としては、エンターテイメント性の部分をマイナスしてAとする。

余談だが、私が見に行った映画館では同じ監督作品の「A2」と一緒に再演が、家族の住んでいる地域の映画館でも上映が近くされる予定であり、中小規模の映画館ではそこそこ注目されているようである。

 

さて、ドキュメンタリーあるいは教養番組あたりまで含めて、いわゆるフィクションではない映像作品について考えたい。去年の10月にナチス関係の映画を続けて見てから、映画を見る機会がそれまでに比べて格段に増えた。意識して選んでいるわけではないが、見た作品のジャンルとしてはドキュメンタリー映画、あるいは実話を基にした作品を見ることが多かった。その中でも、「みんなのための資本論」と「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」の二つは、とても面白い作品だった。

 ↑残念ながら現在日本語版のソフトは販売されていない(そもそも吹替はないが)

私は、この二つをドキュメンタリー作品と考えているが、アメリカ発のこれらの作品は、それまで私がドキュメンタリー作品に対して持っていたイメージを覆した。その点に関して言えば、「FAKE」は日本のドキュメンタリー作品の枠からは脱していないように思えたので、今回、対比をしてみたい。

和歌山県太地町のイルカ漁を題材にした作品でも問題になっていたが、日本において「ドキュメンタリー」という作品ジャンルでは「記録」つまり「創作ではないこと」が過度に重視されているように思える。「ドキュメンタリー」が「事実を記録した(作品)」を意味する以上、ねつ造や虚偽の内容を含めることは論外だが、「記録映像」でも編集の仕方によっては、十分エンターテイメント性を持たせることは可能だ(例えば「私は女性が活躍できる社会にする」などと公式の場で発言している政治家の映像の後に、内輪の政治パーティーでは女性蔑視の発言を連発している様子を流すような、言っていることとやっていることの矛盾を映すことなど。前述の二つの映画はこのような場面が多い)。NHKの「NHKスペシャル」に代表されるような記録性、あるいは真実(の一部)に迫っている、という点では高く評価されるが、娯楽性はほとんどなく、結果として見るのはごく一部の人間だけ、といった作品がドキュメンタリーでは多いのではないか。

さらに言えば、見せ方次第で事実の評価の仕方はいくらでも変わるものだと思うのだが(実際に、「FAKE」では佐村河内守に関する話題で、取り扱っていないものもある)、そのことを前面に出さず、記録にこだわりましたよ、という体裁でいるのはかえって真実の一部分しか伝えていないという点で問題だ。これは他のメディアについても、メディアリテラシーの問題としていえることだが。

では、娯楽性を求めるとどうなるかと言えば、新垣隆が出演していたバラエティ番組のように、政治や社会の問題はただの「ネタ」でしかないような番組ばかりになる。風刺画などは、まだ社会的なテーマを扱っており面白く考えさせられるものも(そうではないものも)あるが、映像に関してはほとんど見たことがない。

娯楽性がなければいけないのかと言えば、そんなことはないが、どれだけ優れた作品でも、見てもらえなければ、その価値は減じてしまう。また、真剣なテーマだからと言って、必ずまじめに、あるいは笑いなど全く起こる余地のない静謐な作品ばかり作らなければならないということもない。商業性と芸術性をある程度まで両立させることも、重要なことではないか。少なくとも、現在のドキュメンタリー作品はもう少しユーモアを含ませてもいい、ということを上記2作品を見て私は考えた。

自分自身がテレビや映画をそれほど見ないから、ということはあるものの、唯一娯楽性とテーマ性を兼ね備えていると感じられるのはNHKの「ブラタモリ」である。町、土地の歴史を掘り起こすというテーマのもとに、タモリと出演者のコミカルなやり取りを交えながら進行するこの番組は、かなりの良作だろうと思う。惜しむらくは、現時点での政治・社会的な問題は扱っていないことか。この番組で扱う必要は全くないが、同じようなスタンスで、歴史だけではなく政治・社会問題に取り組むような番組・作品があればいいのに、と思うが、政治がほぼタブーと化している今の日本では、難しいのだろう。それでもいつの日かはお目にかかりたいと思う。

 

前回の更新から二カ月以上が経過しており、映画を見た時の記憶があまり残っていない。しかも、明日には再演を見に行く予定だ。遅すぎる。こんな、やる気のないことが見え見えの筆者が、「いつの日かお目にかかりたいと思う」などとほざいても何の説得力も持たないことは明白だが、次回の記事はもう少し早く更新したいな、と思う。できれば、来週ぐらいには……。

 

私は厳罰を望まない

 本来、ここでは書評を中心に記事を書こうと思っていたので、時事問題はあまり取り上げないつもりでいた。しかし、大きな事件が起きてしまったこと、そして、それに対する世間の反応として不快なものが予想されるので、今回記事を書くことにする。多くの人の目に触れれば、きっと炎上するような記事になるのだろうが、それでも書くことにする。

 2016年7月26日に相模原市の障害者施設で、多数の死傷者が出た事件について、恐らく、今日の夕方のニュース番組や明日の新聞の社説では、犯行に対する憤りとやらが表明されるだろう。来週か、早ければ今週後半の週刊誌では事件についての記事が出るかもしれない。犯人の人格について否定するような、あるいは家庭環境や生育家庭などで問題があったことを取り上げるような記事も載るのだろう。犯人に対する厳罰を望む声はきっと上がる。だが、私はそれに反対だ。少なくとも、事件発生の原因究明を伴わずに刑罰が執行されるようなことには強く反対する。

 殺人事件に対する不快感、事件が二度と起こらないように願う気持ちは、正当なものであり、決して否定されるべきではない。しかし、犯人に対するありとあらゆる言説が正当化されるかと言えば、そうは思わない。そのような発言をする人間に対しては、「自分も犯人になっていたかもしれない」という危機感が全く足りない、と指摘したい。

 少し前に、勤務先の店で「人を殺すような奴に人権はない」と職場の人間が話していた。アメリカでの銃の使用のニュースに触れての発言であったが、私にはどうも納得ができなかった。私が勤めているのは郊外の書店であり、従業員の多くは自動車での通勤だ。殺意を持って事故を起こすことはないだろうが、過失で人を殺してしまう可能性が絶対にないとは言えない。実際に、過失や責任が全くない場合でも事故を起こしてしまうことがありうると、私は自動車学校で聞いた。鉄道事故のほとんどは、運転士に責任や過失はないだろう。それでも、予期せぬ殺人者になってしまう可能性が、今の社会では決して低くはない。

 また、自分の暮らしているのが、今の日本のようではなく、内戦中のシリアのような国だったとしたらどうだろうか。あるいは、第二次大戦中に生きていたとして、自分が徴兵されていたら。本当は殺したくないとしても、撃たなければ死ぬ、という状況下で、どれだけの人間が平和主義者でいられるだろう。歴史を振り返れば、その社会では普通だと思われる多くの人間が虐殺に加担するような状況は数多くある。現在の日本で殺人を犯す人間の数は、そうではない人よりもはるかに少ないとはいえ、殺人犯が皆、異常な人間かと言えばそうではない。「自分は普通の人間だから殺人など絶対に犯さない」という保証はどこにもない。

 普通だったはずの人間が、殺人犯になるまでには必ず何らかの原因と経過がある。その要素はそれぞれに違うとしても、原因を特定し、それに対して対策を施していくことは、殺人まで発展しない事件や諸問題の解決につながるのではないか。

 私が強い関心を抱くのは、被害者も加害者も自分にとって他人ごとではないからだ。まず、加害者についていえば、犯人は事件のあった障害者施設の元職員で、障害者のケアをしていた。私の以前の職は塾の講師や家庭教師であり、ある意味では生徒という「勉強についての障害」を抱える人間をケアしていた。今の書店員も、「商品の知識に対して何らかの障害」を持っている客のケアをしていると言えないこともない。全ての生徒や客が酷い人間だったというわけではないのだが、中には不快な思いをする相手がいる。どちらにも責任がなくとも、嫌な気持ちになることもある。対人サービスというのはストレスを抱えやすい仕事だ。待遇も必ずしも良いとは言えない。今回は障害者施設だったが、老人ホームなども対人ケアの職業という点では同様だ。今年の2月にも老人ホームの元職員が、入居者をベランダから投げ落としたという事件で逮捕されている。事件の原因に共通する部分もあるのではないか。事件のあった施設に特に問題がなくとも、業界、ひいては社会全体の問題として、ケアをする人間の負担をどう減らす、あるいは分散させるか、また、ケアをする人間に対するケアをどのようにしていくか、ということを考えなければならない。

 また、自分自身、あるいは自分の家族も老人ホームへの入居、あるいは認知症などで介護が必要にならないとも限らない。そんなときに、自分をケアしてくれる人間が同じようなことをしないという保証はどこにもない。介護殺人がそれなりの頻度で起こっている以上、絶対にないなどとは言えない。殺害、あるいは暴力と言わなくても、思わず手を上げてしまった、ということはあってほしくはないが、多くの人間がしてしまうだろう。

 今回の事件は犠牲者の数から言っても、めったに起こることではない。しかし、小規模なものであれば、先ほど挙げたような介護殺人のように、誰にでも起こりうることであるとは十分言えることだ。その点を忘れて、加害者の特異性ばかり強調することは、社会にとって何の益もない。

 多くのメディアは被害者に対して哀悼の意を表明するだろう。しかし、それで終わらせてしまい、事件の背後に潜むものを探ろうとしなければ、ただの野次馬だ。それどころか、厳罰、つまりは死刑を望むような世論を煽る言説は、刑罰によって問題が解決するかのような誤った印象を与えかねないという点で、大きな害悪だ。それよりも、原因の究明を優先すべきである。結果として裁判で厳罰が下されることもあるだろうが、あくまで、ゴールは類似の事件の再発防止であって、懲罰ではない。それでも、加害者特異説を展開するのであれば、それは自慰行為であるという自覚を、メディア各社の担当は持ってほしい。

 

 犠牲者のご冥福を、と書くのは簡単だが、どうも、嘘くさい、あるいは心がこもっていないのではないか、と新聞記事のコラムなどを見て思う。ただ、同じような事件が二度と起こることのないように、とは心の底から思う。

 

 

小説 君の名は。

 どうせ書いても全く読まれないだろうと思っていた前回の記憶屋の書評だが、意外なことに、ほんの少しアクセスがあった。やはり、取り上げた作品が夏の文庫のフェアに登録されているからだろうか。勤務先の書店の売れ行きなどを見ていると、アニメ化の作品などもアニメ化が決定した直後や放映開始時よりも、放送開始後、ある程度たった頃から売れ出すようになる。書評を書いておいてなんだが、「所詮、他人の評価なんて当てにならなくってよ、衝動買い上等!」と私は考えてしまう性質なので、失敗を忌避しようとする他人の購買傾向に歯がゆいものを感じる。

 しかし、考え方によっては、それだけ、「広告」というものが信用されていないということなのだろう。少し、気になって手持ちの文庫(と言ってもほとんどライトノベルだが)のうち、中学や高校生の頃(今から10年以上前だ(笑))に購入した作品の帯を確認してみた。新人賞の受賞やアニメ化、映画化についての告知はさすがにしてあるが、後は作品の内容紹介ばかりだ。作中のセリフが一行、作品についてのコメント(紹介)が一行というものが多い。それに比べると、現在発売されているものには著名人や、他の作家のコメントがとても多い。「あの人が面白いと言っているんだ、(だから買っておくれよ!)」という下心が透けて見えるようだ。内容を紹介しないのは、作品自体の魅力があまりないからだとも考えてしまう。そんな宣伝をしているから、読者も購買に慎重なのだろう。もう少し、広告の担当者は工夫するべきではないか。さもなければ、NHK(の中にあるはずのゲスニックマガジン)が取材にやってくる日も近い。

 前置きが長くなったが、今回紹介するのは「小説 君の名は。」前回に続けてカドフェスに登録されている作品だ。紹介したときにブログが読まれやすいものを、という選び方をしていないと言えば嘘になる。ただ、どうせ書くなら映画公開前に、と思ったのも事実だ。

 作品は8月26日公開予定の映画を原作とする本、と言っていいのか。映画が完成する前に小説は出版されているので、ノベライズとは言いにくいものがあるし、最初の企画は映画から始まっているので、原作本というのも、正直、違う気がする。著者は、映画の監督本人。それぞれの作品は小説版、映画版と考えるのが良いだろう。

 主人公は二人の高校生。それぞれ全く別の場所で暮らしているのだが、ある日、別人の人生を歩む夢を見る。最初は夢と思っていたのだが、何度も夢を見るうちに、夢を見ている間に元の自分が、自分自身も知らないことをしており、自分は他の誰かと入れ替わっているのではないかということにお互いが気づく。相手に対し、不平不満を言いつつも、別人の人生を過ごすことを楽しみ始めた二人だが、実はこの入れ替わりには秘密・理由があり……、というのが中盤あたりまでのあらすじ。

 読んでみようと思ったきっかけは、店頭で公開されているプロモーションビデオだ。他の誰かと入れ替わる、という部分に何となく惹かれた。本を読むということが好きな理由の一つに、他人の人生を覗き見たいというスケベ心があるのは間違いない。惹き付けられたのはそのスケベ心だろう。同じようなスケベは、勤務先の店の客には結構いたらしく、カドフェスの本の中では一番売れていると思う(確認はしていないが)。中高生が比較的多い店なので、買っていくのは多くが学生だ。

 余談だが、馬券を買った人間がレースを見ているときの心境はこんなものなのかな、と思う。新しく発売される商品で、同じ作者の既存の作品は(紹介文では高く評価された、と書いてあるが)それほど売れたわけではなかった。映画化されるとはいえ、映画化作品でもそれほど売れない作品も、半年程度の間にそこそこ見てきたので、絶対に売れるとは言えなかったが、学生向けの作品だろうと思いとりあえず賭けてみた。結果は今のところ順調だろうとは思うが、残りの在庫が不良在庫、つまり外れ馬券に変わらないとも限らない。ある日を境に全く売れなくなることもある。そのため、売り上げ実績を確認しているときには「行けっ」「売れろっ」と、客がレジまで持って来たときには「よっしゃあ!」と心の中で叫ばずにはいられない。

 さて、作品の評価について考える。文章についていえば、やや、ページの空白が多いなと思う。しかし、高校生の独白や高校生同士の会話の再現、あるいは作品に良いテンポを生み出すという結果からすると、これは、むしろ肯定的にとらえるべきものだろう。唯一不安なのは、主人公のうちの一人が住んでいるのは飛騨地方ということになっているが、そこで使われている言葉が不自然かどうかだ。ただし、私は飛騨の言葉については詳しくないので、この点について違和感はない。

 ストーリー展開や舞台設定については申し分ない。話のつかみ、中盤以降の謎の解明とその後の展開、最終盤に向けた冒険などよくできていると思う。イメージを一言でまとめるならば、「ひと夏の冒険」だろうか。実際には夏から秋にかけての話ではあるが、少年時代にしか味わえない高揚感と疾走感を巧みに切り取っていると思う。イメージの近い作品としては、映画「ジュブナイル」や「学校の怪談」、ドラえもんクレヨンしんちゃんの映画作品などが思い浮かぶ。細かい設定でも、神事の内容に口嚙み酒など、どこで調べてきたのかと思うような面白いものが使われており、「どこにあるのかは知らないが、どこかにあるかもしれない」と思わせるような舞台を構築している。

 かなりの良作だと思う。それだけに残念なのが、ややパンチに欠けるというか、淡白というか、癖が少ない。これを書きたい、という作者の強烈な意思をあまり感じなかった。もしかしたら、映画ではこれが画面上に表れているのかもしれないが、少しだけ物足りなさを感じた。その点については、後でもう少し考えたい。

 エンターテイメント作品としては文句なしだろう。総合評価はA⁻だ。

 

 

 物足りなさを感じた点について考えてみる。読後の感想として最初に出てきたのは「面白かった」なのだが、そのあとには「で、結局何の話だったんだ」と思ってしまった。テーマ、という言い方で片づけてしまうのは良くないが、この作品のテーマがわからなかった。別の言い方をするなら、作者に対して「この作品を書くことで結局何がやりたかったのですか」という問いをした時の答えが全く想像できなかった。自分の読解力が足りないからだ、と言われればそれまでなのかもしれない。また、読み終わってしばらく経過した今なら、「青春や、少年少女の成長を描く」、あるいは単純に「面白い話を作りたかった」だけなのかもしれないとも思う。

 ただ、作品を貫く問題意識というものはなかったように感じる。問題意識、と聞くと社会に対して抱く主張のような何か高尚なものに思えてしまうが、別にそんなものではない。「紅の豚」のVHSケースの裏側には、「カッコイイとは、こういうことさ。」とあるのだが、これが象徴するように、「紅の豚」で宮崎駿(と製作スタッフ)がやりたかったのは「カッコイイ男を描くこと」で、問題意識(あるいは製作者の関心というべきだろうか)は「どうすれば登場人物をかっこよく描くことができるか」ということに尽きるのではないだろうか。

 作者自身があとがきで書いているように、もともと小説版を書くつもりはなかったようで、それが作品に反映されているようにも思う。結果的に映画では十分に反映されない、あるいは映画の制作だけではあまり深く考えていなかった主人公の心情について、小説を書くことで整理・発見できたということだが、それならば、もう少し映画では描かれないが存在するはずの場面における主人公の心情を掘り下げるということもしてよかったのではないか。ページ数にはまだ余裕があるし、後日譚の部分はもっと長く書くという選択もあった。映画完成後、作者にもっと他の部分を細かく書きたいという欲望が芽生えてくるのであれば、改訂版という形で加筆したものを出しても良いと思う。

 個人的な趣味からいえば、主人公二人の社会との接点についてもう少し描いて欲しかった。二人の主人公は必ずしも家庭環境に恵まれていない。少なくとも、問題は抱えている。また、家庭以外での人間関係でもちょっとしたトラブルを抱えていたりするのだが、そういった問題を解決するのはお互いが入れ替わっているときで、描写はほとんどない。あるいは、問題は解決することなく時間だけが経過して終わっている。最初は高校生の社会関係なんてほとんどないようなものか、とも思ったが、それほど広くはなくても、いや、むしろ広くないからこそ苦しい人間関係があり、その切れ端は垣間見ることができるのだが、描写の分量、方法としては十分とは言い難い。青春の輝きは描いているが、苦みがないのだ。

 何で読んだのかは忘れたが、作者の新海誠のことを「ポスト宮崎駿とされる細田守。そしてポスト細田として注目を集める新海誠」というような紹介をしていたものがあった。宮崎駿は前述の「紅の豚」に限らず強烈な自己主張があったように思う。それは作品に限らず三鷹の森ジブリ博物館などでも、強く出ていた。そういった部分があるからこそ、海外でも作品の芸術性が評価されるのだろうし、長期間に渡って視聴され続けているのではないだろうか。先ほど、言及したジュブナイル学校の怪談は、決して悪い作品ではないのだが、今の小中学生のうち、どれくらいが知っているのだろう。ポスト宮崎駿になるためには時代の変化にすら耐えうるような作品を作っていかなければならないはずだ。芸術とは(日本ではあまり浸透していない理解だと思うが)自己表現ということに尽きるらしい。公開予定の映画は、新海誠監督の強烈な個性が発揮され、時間の重みにも抗う作品であることを望む。

 

最後にもう一つだけ。せっかくタイトルが「君の名は。」だったのだ、口語っぽくなくても「君の名前は」ではなく「君の名は」と作中で使ってもよかった、というか使って欲しかった。

記憶屋

 最初に取り上げるとしたら、書評を書くきっかけになったこの作品しかないだろう。

記憶屋 (角川ホラー文庫)

記憶屋 (角川ホラー文庫)

 

 読もうと思ったきっかけは、あらすじを読んで気になったことと、角川の営業の人に「売れてますよ」と勧められたからだった。角川出版社としても推したいタイトルなのか、去年の秋に出版されたタイトルだが、今年のカドフェス(角川文庫の夏のフェア)の中に入っている。おススメのポイントは「泣けるほど切ない、第22回ホラー小説大賞・読者賞受賞作」とあらすじに書いてある通り「泣ける」「切ない」なのだろう。帯に(カドフェスのものもそれ以前のものも)同じような点についての推薦文が書かれている。

 ストーリーは4章構成。タイトルにもなっている「記憶屋」というのは他人の記憶を消すことができる怪人。1章は主人公とその先輩の話。2章は余命幾ばくもない弁護士とその関係者。3章は家庭事情が複雑な男子高生とその幼馴染の女子高生。4章は主人公と記憶屋が中心に話が展開される。全体としては記憶屋について調べる主人公が話の中心ではあるが、2・3章は記憶屋に関する話というだけで、主人公はそれぞれの章ではほとんどかかわりがない。記憶屋を主題とする連作短編集と言ってもいいかもしれない。

 作品の主題は「忘れたい記憶」だ。上で紹介した登場人物たちの多くはそれぞれ忘れてしまいたいと思うほどの苦い、つらい経験がある。短編集として考えれば、それぞれの章の結末、特に2章などは感動的だと言える。しかし、4章の、つまり作品全体の結末も感動的だと言えるかは疑問だ。そのため、私はこの作品が感動的な結末である、という紹介文に納得できない。理由は、作品の核心に触れるため後で詳述することにするが、帯に書かれている「衝撃的で切ない結末にきっと涙こぼれる」というのは何か悪い冗談だと思えた。涙がこぼれる理由は期待が裏切られるからだろうか、と今では思う。

 文体については評価できる。読みやすく、わかりにくい表現もなく、作品の世界観に合わない表現が出てくることもない。改行が多くて中身がないような本ではないが、次々にページを繰っていける作品だ。

 角川ホラー文庫のレーベルから出ているので、ジャンルとしてはホラーになるのだろう。ホラーとしての成功度を何で測るかという点に正解はないと思うが、読者に恐怖を与えるという点では失敗だろう。これも理由は後で書くが、個人的な感想としては全く怖くなかった。むしろ、結末を読んだときに「ああ、ホラーの終わり方だな」と思う結末だったが、それがホラー文庫として出版された理由なのだろうか。

 最終評価としては、

  • ストーリーは導入、中盤は良いが結末がいまいち
  • 文体は良くミステリー要素もなかなか
  • ホラーとしては残念

A~Eの五段階評価ではB⁻になる。一言付け加えるならば、「帯の言葉を信じるな」だ。

 

 以下はネタバレを含むので、それでもかまわない方だけ読んでほしい。

  

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あおしま文庫開設

 日記、というものと相性が悪い。

 毎日、書かなければならないというのが駄目なのだろう。一行書くだけのようなものでもやってみようと思ったが途中で投げ出してしまった人間だ。到底、続くとは思えない。

 それでも始めてみようと思った。何か、書いてみようと思ったのだ。

 2016年6月現在、私は書店にアルバイトで勤務している。担当は文庫。少し前まで一人ですべて担当していたが、後輩が入ったのでライトノベルはそちらに任せている。アルバイトの面接でも言ったが、小説が書きたい。売れるものを書こうという願望はさっぱりないので、職業としての作家になりたいとは思わないのだが、書いてみたいと思う事柄はそこそこある。しかし、いつか書き上げたいと思いながらも、書きかけの小説の続きは長いこと書いていない。特に上手く書こうとするとなかなか書けない。このままではいけない、何か新しいことをしようと考え、思いついたのが書評を書くことだった。

 仕事柄、文庫の新刊に付いている帯の宣伝文句やあらすじは目に入る。本が好きで本屋に入ったクチなので、そのうちの気になったいくつかは買ってしまう。宣伝、特に「泣ける本No.1!」などは全く信じないが、それでも、作品の大体の方向性についてはそういったものを頼りにイメージを膨らませて買ってみる。だが、読み終わった後に推薦文を読み直すと、「本当にコレ読んだの?」と問い直したくなるようなものばかりが並んでいる。出版社はとにかく世に出た本を買ってほしいもの、誇大広告が展開されるのは当然だろうが、それでもあまりに度が過ぎると、信用と信頼を失う。また、そういった広告ばかり展開されるのは(現在そういうものが増えているなとも思うが)、読者としても好ましくない。少し前に、映画「シェーン」のDVDの広告で、メーカーは男の物語であることを盛んに強調しているのに、コメントを求められていた山田洋次は、「主題はシェーンの人妻に対する慕情」などと書いてメーカーの戦略を台無しにしていた。それと同じように、売りたい側にとって都合のいい情報を並べるのではなく、作品を利益とは無関係な立場から評価するものが必要ではないかと思った。そういったものを発表することは出版社、作家、書店、読者、関係者のいずれにとっても不利益にしかならない現状を(少しは)変えるだろうとも思った。

 このブログには、私が読んだ本や漫画、見た映画やドラマなどについて「感じた」ことを「考えて」書き「論じる」ことにする。ただ、感想や不満だけを書くのではなく、その作品について、評価すべき点、不満な点を挙げ、なぜそのように言えるのかということを説明し、それをもとにさらに良い作品を作るためにはどうすればいいのか、気を付けるべき点を洗い出すことで、(一向に進まない)自分や、他の人の創作活動に資すれば、と思う。

 表題の「あおしま文庫」には長期間にわたって読まれるもの、読む価値があるものを書き残そうという思いを込めた。意外と、短期間で流通しなくなる本が多いというのは、本屋で働いて学んだことの一つだ。1年経てばもう用済み、というような文章ではなく、イメージでは岩波文庫のように、できるなら百年以上経過しても読まれるものを書きたい。

 読む本や見る映画などは正直に言えば、かなり偏っているだろう。しかし、読んでもいない本の書評を書くのは詐欺だ。下ネタから政治・哲学まで幅広く取り上げたいとは思うが、読者と好みが合わないことに関してはご容赦いただきたい。

 評価はA~Eの五段階を基本とするが、それぞれにプラスやマイナスをつけるだろうと思う。参考までにそれぞれの評価について評価基準を書いておくと、

  • A:おススメ。できるだけ読んでほしい。
  • B:少し満足できない部分もあるが読む価値がある。
  • C:読むべき点が(少しだけ)ある。
  • D:可もなく不可もなく。
  • E:時間の無駄。

ということにしてある。ただ、Eの評価を下すような作品については、たぶん書かない。読んでいる途中で投げ出すだろうし、他の作品について書いたほうが自分にとっても読者にとってもいいに違いない。

 だいぶ偉そうなことを書いてしまったが、大したことは書けないだろう。本を買うか読むときの参考にでもしてもらえれば幸いだ。

 

 

2016.6.29 青島清華