あおしま文庫

筆者が読んだり見たりした本、映画などについて論じる

政府側の「避難経路」に満ちた「給付型奨学金」

しばらく書評を書いてなかったが、今月になって、読むのに時間のかかっていたケインズの「雇用、利子および貨幣の一般理論」をようやく読み終わった。そちらを紹介しようと準備をしていたのだが、新聞の一面がとんでもない記事だったのでこちらを取り上げる。ケインズ田山花袋と一緒に考えたいので、花袋の「蒲団」を読み終わってから紹介するつもりだ。

対象となるのは朝日新聞の12月18日付の朝刊掲載の「給付奨学金 月2万~4万円」だ。現在では、大学生に対する奨学金は、有利子にせよ無利子にせよ一度借りたら返さなければならない「貸与型」の奨学金がほとんどで、返済義務のない「給付型」の奨学金の創設が求められていたが、政府が創設する「給付型」の奨学金の案がおおよそ固まった、ということを報じた記事だ。

一面のトップ記事であるにもかかわらず関連記事がなく、この問題に対する朝日新聞社の本気度が疑われる。しかし、同じ日の21時30分ごろにYahoo!ニュースで検索したところ、12月8日の昼と夕方にそれぞれ時事通信毎日新聞月額2万~4万円に=給付型奨学金で原案―文科省 (時事通信)<給付型奨学金>月2万~4万円に…文科省検討 (毎日新聞)というほぼ同じ内容の記事を配信しているが、他には今野晴貴橘玲誰が「新しい奨学金」を受けられるのか?(今野晴貴)給付型奨学金がうさんくさいのには理由がある(橘玲)という論評を書いているだけで、他の報道機関の関心もそれほど高くはなさそうだ。朝日の記事と比較すると、毎日と時事通信の方が情報の出所が文科省であると明記している点が良い。朝日は後発なので、他の二紙よりも新しい情報が含まれてはいるが、情報源、あるいは政府機関のどの部門が検討チームに参加しているのかを明記していないのは問題だろう。しかし、憤慨したのはその政府案の内容だ。一応、一面のトップ記事に採用したこと自体は、評価できる。

朝日新聞の報道によれば、政府案の内容は、

住民税非課税世帯が給付の対象で一学年約2万人。

給付額は通う大学が国公立か私立か、自宅からの通学か下宿か、という負担の重さに応じて月額2万円から4万円に決まる。

対象者の条件はA高い学習成績(今野や橘によれば、他の報道では5段階の内申点で平均4以上)B教科以外の学校活動などで成果、というAかBのいずれかで学校による推薦が必要。

国立大学の授業料減免制度を使う場合は、その分給付額を減らす。

大学に学業の状況を毎年度確認してもらい、著しく悪い場合は返すよう求める。

2018年度から本格的に実施するが、17年度から負担が重い下宿住まいの私大生などには先行実施。そのための予算は、文科省の予算の組み替えや厚労省の同種の制度を縮小したりして確保する。

以上の6点に要約できる。しかしここには多くの問題がある。

まず考えたいのは、この「給付型奨学金」を創設する目的だ。奨学金を支給する目的というのは、「お金がなくて勉強ができないのなら、その分をあげよう」という低所得者支援と、「君のように優秀な人ならもっと勉強してほしい、だからお金をあげよう」という優秀な人材の確保のための勉学奨励の二種類が考えられる。上記の③と⑤からはある程度後者の性格を持っているように見えるものの、所得制限を設ける①があることから実際には低所得者支援であるのは間違いない。ノーベル賞受賞者のようなエリートになりそうな人材を本気で確保したいのであれば、所得に制限などつけている場合ではない。しかし、建前の上では低所得者支援なのか、人材の確保なのか、どちらともとれるようにしている。

また、支援する目的が受給者の「学費支援」なのか「生活支援」なのかもはっきりしない。②のように国公立よりも学費の高い私立大生に多く支給すること、また④のように授業料の減免制度と併用ができないことから、「学費支援」のための奨学金のように思えるが、それなら、他の目的で使ってしまう可能性がある現金給付ではなく、最初から授業料を引いておく方が確実だろうし、制度を新設するという面倒なことをする手間も省けるはずだ。一方、①の住民税非課税世帯はおおよそ生活保護を受給する条件と同程度の収入の水準であること、②の実家通いよりも家賃を支払わなければならない下宿住まいの学生に多く支給することから、「生活支援」のようにも思える。しかし、「学費支援」の場合についてもいえるのだが、支給額が全く不十分だ。支給される金額は月額で全員に2万円、私大生にはプラス1万円、下宿生にはプラス1万円だ。年額だと全員に24万円、私大生にプラス12万円、下宿生にプラス12万円。全員に支給される月2万円は国公立大学の学費にも届かないし、月1万円では国公立と次第との差額を埋められない。地域にもよるが月に一万円の下宿など見つけられるのだろうか。現在の収入水準でぎりぎりの生活を送っているとしたら、給付を受けても大学への進学は大幅な赤字だ。この奨学金が進学を後押しすることはあまりなさそうだ。ないよりはマシだが、実際には貸与型の奨学金も借りざるを得ないだろう。

以上のように二つの点で、この奨学金の目的はあいまいだ。目的があいまいだということは、この奨学金を通して何を実現したいのかということもあいまいなのだろう。なぜあいまいなのかと言えば、この奨学金があちこちの方面からの要求に応えらえるように、どうとでも解釈や言い訳のできるもの、つまり逃げ道を多く用意したものだからに違いない。橘玲は前出の記事で次のように書いている。

 

「(前略)要するに、バカな生徒に税金を使うと世論の反発が面倒だから、賢い生徒に給付して見てくれをよくし、“弱者”のためにいいことをしているとアピールしたいのです。(後略)」

 

彼の記事の論調や内容にはあまり賛同できないが、この部分、特に「アピール」という言葉には強く賛同したい。この「給付型奨学金」に対して利害関係を持つのは、貧困と低所得の相関関係を問題視する教育関係者や予算の削減を求める政治家や財務官僚、学費負担の減免を訴える学生や保護者、他者への支援を拒否する(一部の)一般人など様々に考えられるのだが、そのどれに対してもある程度「我々はこうしています」というアピールができそうな制度にしているのである。

例えば、先ほど挙げた④の授業料減免との併用の不可や⑥の予算の組み替えによる実施というのは、予算の削減を求める意見に配慮したものだろう。しかし、「もらうお金の名前が変わっただけで中身は変わらない」のであれば、受給者の負担の軽減にはつながらず、意味もなく制度をいじっただけで終わる。今回の給付金のうち、すべてではないだろうが一部についてはそのような性質のものであるということは確実だ。

また、返還義務がないはずの「給付型奨学金」のはずなのに⑤のように成績についての条件を定めて返還の可能性を残すのは(私はインチキだと思う。だから今まで「給付型奨学金」と括弧をつけてきた)、橘玲が指摘したような意見に対する配慮だろうが(現在の条件だと入学時に成績が悪い学生は給付を受けられないので、最初から「バカ」な生徒はいないだろう)、成績が悪化する理由は本人にやる気がないからとは限らない。生活費を稼ぐためにバイトをしていたら、バイト先に問題があったり、生活費のために長時間の労働が必要で勉強の時間が取れなかったりしたため、成績が悪化したということは現在でもある。先述したとおり、生活が困窮している家庭が大学へ行くために追加で負担しなければならない費用は大きく、奨学金の額を優に超える。可能性は十分あるだろう。他にも、けがや病気、精神的な問題、人間関係の悪化などが原因でひきこもるなど、単に「やる気」の問題、あるいは本人の責任に帰することができないものは数多くある。その点に対してすら「〝著しく″悪い」と留保をつけることで逃げを打っている。個人的には、留保をつけていること自体は歓迎すべき内容なのだけれども、どうも、手放しでは喜ぶことができない。

ちなみに、大学生なんて暇なものなのだから、バイトぐらいしていたってどうってことないのではないかと考える人のために、文科省がどのような学生を模範的な学生と考えているかがわかる一例を紹介しておく。大学の授業は、一回90分の授業を半年受けると2単位になるものが多く、一年間受け続けたとすると4単位。一年間で卒業の要件として認められる単位は40単位なので、一週間だと10個分の授業を受ける場合が多いだろう。時間にすると15時間。大学教員に聞いた話では、文科省は一つの授業に対して同量の予習と復習を必要とするなどと抜かしていたらしいので、その通りだとすれば予習と復習、授業を合わせた勉強の時間は一週間で45時間、一日の平均では6時間半以上の学習を必要とする。一日の睡眠時間が8時間だとすれば、残りの時間は9時間と少し。その残りの時間で通学や食事に風呂、下宿生と自宅通いで分量に差はあるかもしれないが買い物や料理、洗濯、掃除などの家事をこなし、さらに生活費のためにバイトをするとなれば、ほとんど休む暇はないだろう。

そして、私が一番気になったのは①の所得制限を設ける点である。2万人という規模では支援が必要な対象にいきわたらないという指摘もあるし、住民税非課税世帯よりも収入が高くても支援が必要だという指摘もある。しかし、何よりも問題だと思うのは、「給付型奨学金」というのは、結局「他人からお金をもらうこと」だということ、もらえない人はそのことを歓迎しないこと、そして制度設計者がそのことにどうも無自覚なようであるということだ。生活保護に対する風当たりが強く、受給資格がある人も制度を利用しようとしないことは以前からも指摘されてきた。井出英策も「18歳からの格差論 日本に本当に必要なもの(東洋経済新報社、2016)」で、生活保護に対する自身の経験を書いている(井出、92ページ)。だが、今年に限って言えば、「他人からお金をもらうこと」に対する妬みがどれほど強いか、多くの人が知る機会があったのではないか。奨学金をもらうことに抵抗のある人や、ねたむ人なんてそんなにいないというかもしれない。しかし、「生活保護」が「給付型奨学金」に、もっと言えば「東電の賠償金」が「給付型奨学金」に置き換わることがないと絶対の自信をもって言えるだろうか。そんなことを言う人があれば、私はその人の理性と良心を疑う。

思えば今年は、というより今年「も」悲しい事件が多く起こった。それ以上に、悲しかったのは、事件に対処する組織の対応がお粗末なものも多かったことだ。ハンセン病患者に対する最高裁判所の対応や横浜市相模原市の第三者委員会の報告書などには随分とがっかりさせられてきたが、ここにきて「給付型奨学金」の政府案がとどめを刺してくれた(これがとどめだと思いたい)。彼らの対応はどれも、「謝れって言われたんでとりあえず謝ってみました」という掲示板のタイトルにでもなりそうな軽いノリの精神のもとになされたのではないかと、疑えてならない(そういえば朝日新聞も「ファクトチェックしてみました」という同じノリの、問題意識も目的も伝わってこない企画をしていた)。軽いノリがいつも悪いとは言わない。しかし、問題意識も目的も不明確なまま行われるものがどのような成果を上げるのか、ゆとり世代であることを散々馬鹿にされてきた私には、大したものにならないだろうと自信をもって言える。そして、今回馬鹿にされているのはほぼすべての国民だろう。

どのような制度も、実際に運用してからいろいろな問題に気付き、修正を施していくことは必要だろう。しかし、「給付型奨学金」に関して言えば、始める前から問題が多すぎる。撤回をする必要はないが、再検討と修正が必須だ。制度設計者が心ある人物なら問題にはすでに気付いているだろうし、設計図にある言い訳の「避難経路」は、ほとんどが機能不全になりそうなことも本当はわかっているのではないだろうか。もしそうだとすれば、その人は自らの良心に従ってこの「給付型奨学金」にどのような理念(低所得者支援なのか、人材確保なのかなど)を掲げるのか示してほしい。しかし、「避難経路」の機能不全に気付きながらも、それを使う必要に迫られる前に自分だけ出ていくつもりの人間がいるとしたら、私は絶対に許さない。今回の政府案は「玉虫色の解決」などでという上品なものではなく、「モザイクのかかった猥褻画」である。

壊れやすい風景を記憶に

11月の末に長野の上諏訪に旅行に行ってきた。旅行目的を訊かれて、仕事ではなかったので観光と答えたものの、見に行ったのは諏訪湖遊覧船と高島城と諏訪五蔵のみ、後は温泉に入ってばかりだったが、なかなか面白い旅だった。高島城は築城の主の関係か、大阪城と地形的な共通点が多かったし、市街地ではシャッターの下りたスナック(昼間に行ったので単純に営業時間外だったのかもしれないが)や旅館、街道沿いの石造りの建物などに街の歴史を感じた。特に、現在の国道20号にあたる甲州街道沿いは坂や寺なども含めて、旧街道の匂いが強く残っていた。酒蔵も歩いてすぐの距離に五つもあり、それぞれ試飲もできる。しかしそれ以上に魅力的だったのが試飲場所の様子や対応の仕方で、お洒落だったり観光向けに開発されていたり家庭的だったりと、蔵ごとに個性的だったのがとても面白かった。戦利品と酒量が増えて、五蔵目を回る頃にはフラフラになってしまう危険地帯ではあるが、また機会があれば行きたい。ついでに言えば、諏訪を「ブラタモリ」で取り上げると諏訪大社などもあって結構面白くなりそうだと感じた。

私が住んでいるのは名古屋近郊のJR中央線沿いであり、大学在学中に住んでいたのも東京都内ではあるがJR中央線沿いだった。小学生中学生の時分には、家族でJR東海が開催する「さわやかウォーキング」にそこそこの頻度で参加していたこともあり、中央線(と五平餅)には思い入れがある。今回も上諏訪に行くまでは中央線に乗ったが、改めて中央線、特に中津川より東から宮ノ越駅辺りまでの木曽路が好きだと感じた。日本全国旅したわけではないので、絶対にここが一番だというつもりはないし、自分の偏見から逃れられないのも確かだが、自分がなぜ中央線に心惹かれるのか、主に近隣のJR高山線下呂駅まで)とJR飯田線と比較しながら、少し考察をしてみたい。

まず考えられるのが沿線の景色の美しさだ。上記の区間木曽川沿いの山間部を走っており、山と水のコントラストがとても良い。しかし、このような風景は山地の多いの日本では多く見られるだろう。高山線飯田線も同じような地形だ。これらよりも中央線の方が良いと感じられるのはいくつか理由がある。

一つは地形にあると思う。高山線飯田線は飛騨川と天竜川沿いを走っているが、川が曲がりくねっているのでそれに合わせて線路もカーブや川を渡ることが多い。このため車窓の景色も、山陰側になるか山陽側になるか、あるいは川側か山側かが安定しない。一方、中央線は南木曽から宮ノ越までの間は一貫して木曽川の左岸を走っているため、景色が安定していると言える。時間帯にもよるが対岸の山が山陰になっていないのも良い。

また、個人的な感覚では電車が山を登っている感覚も良いのだろう。平地の人間なので、山に登るというのは確実に非日常的な行為、あるいは非日常への移行を意味する。同じ中央線でも東側の高尾から山梨方面へ向かう時に、同じような高揚感を感じた。普段、山に住んでいる人は下り坂に同じような感覚を抱くかもしれないし、内陸に住んでいる人が船に乗るということには同じような感覚があるだろう。状況と経験次第で、景色が美しく見えるかどうかが変化するのはおかしいような気もするが、後で書くように価値観には経験が大きく作用されると思えばそれほど不自然でもない。

しかし、一番の理由は中央線が中山道木曽路とほぼ同じルートを通っているからだろう。飯田線天竜峡より南側の「秘境駅」と呼ばれるような国定公園に指定されている区域は、中国の山水画のように思えたし、高山線も飛騨街道沿いではある。しかし、街道沿いの宿場町の雰囲気が一番色濃く残っているのは中央線なのだ。秘境駅沿いに人家はほとんどないし、高山線沿いも昔の街道の面影はあまりない。下呂の温泉街はその名残があるが、線路からは離れている(というか川の対岸だ)。

宿場町と言っても、必ずしも観光地化されているような場所ばかりではない。木曽福島駅周辺は木造家屋も多く昔の街道の雰囲気があるものの、スーパーのイオンもできていたりして昔のままではない。他の町でも昭和40年代~50年代の色付きの瓦屋根の家もあれば、ごく最近建てられたと思うような家もある。しかし、道の幅や家の間隔などのちょっとしたところに、昔の宿場町の名残がある。例えば、家は昭和期に建てられたものでも家と家の間隔は長屋のように狭く密着して建設されていたり、母屋は新しいものなのに蔵は昔からのものを使っていたり、平地が少ないので斜面をうまく利用しながら街づくりをしていたりする。今ではもう「宿場」ではないが、それでも町全体が以前の様子を残しながらも変化し続けており、有機的な存在だと実感できる。

時代劇に使えそうな古い街並みというのも、もちろんよい。観光地になるようなわかりやすい「古さ」のある地域も必要だろう。しかし、30年から40年ぐらい前に作られた街並みや建物も、その時代を印象付ける存在だ。少しずつ壊されるものも増えてきて、いずれは希少価値のあるものになってくるだろう。現時点では、文化財として保護されるのはもっと古いものに限られているだろうが、何でもないと思っているようなありふれたものが、後から価値が出てくるものに変わるのだ。時間が経ってから見てみると、当時は考えもしなかったことに気付くこともある。すべての建物を保存すべきなどとは言わないが、ある程度は保存、あるいは記録に残していくことは考えるべきだろう。

当たり前にそこにあると思っているものは、無くなってからでないとその価値には気が付かないのが常だ。ふと、昭和60年代の普通の街並みを見てみたいと思ったことがあるが、市内の図書館にはそのような本は置いておらず、せいぜい昭和30年代か自然についての風景ばかり。当時の特撮か刑事ドラマを見た方が良かった。いつも見ているものが、いつかなくなってしまう。そう考えると、もう少し毎日見ているものをもっとしっかりと記憶に、あるいは写真に残しておきたくなった。

 

以下に2012年末に訪れた諏訪で撮影した写真のうち2枚を公開する。ヌード劇場は何となく心惹かれたもので、今もあるのかどうかは確認しなかった。駅前の百貨店はもうない。

 

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知識と経験が感性を作る 再考:映画「この世界の片隅に」

不思議なものだ。感性、というと大げさかもしれないので、感じ方と言っておくことにするが、言葉よりも先に存在するもののように思えるのに、それは言語によって構成される部分も多い知識や経験に大きな影響を受けている。そのことを身をもって思い知らされることが、この映画を見て二回もあった。

先日紹介した「この世界の片隅に」の映画を再び見てきた。以前、いくつかの問題点を指摘した際には、あまり好意的な書き方はしなかった。反省すべきことだが、どうも原作からの引き算で映画を見ていたところがある。最初に見たときは足りないところにばかり目が行っていた。ところが今回は、素直に「いい映画だな」と思えた。映画を見る前に抱いていた過剰な期待が消えたからだろう、前回見た時に疑問を覚えた部分は同じような感想を抱いたのだが、それ以外の部分についても見る余裕があった。今回は映画の評価について再考するとともに、原作のある作品を映像化やマンガ化、ノベライズすることなどについて考えたい。

あらすじについては、原作も含め以前書いた記事を読んでもらえばよいと思う。大筋では原作と変わらないが白木リン(名前はカタカナ表記でした、以前の記事はひらがなで書いている部分があります、スミマセン)に関するエピソードは大幅に削られている。また、原作から一部省略されているためつながりが悪いシーンがある。幼馴染みの水原が鉛筆を渡すシーン、水原が入湯上陸ですずの家にやってくるシーンは以前指摘したとおりだが、小姑の径子さんがすずに広島へ帰ればと言うシーンや周作に荷物を届けるためにすずが化粧をするシーン、落下してきた焼夷弾をすずが眺めているシーンなどはもう少し手を加えた方が良かったように思う。

話が逸れるが、最初に映画を見た後の感想をまとめた記事のタイトルは、元は「原作物は難しい」にするつもりだった。しかし、文章を書いているうちに、原作のうちどの部分を使いどの部分を省略するか、セリフなどを映画化するにあたってどのように変更していくか、といった編集作業に頭を悩ませている製作陣の姿が思い浮かんだので、公開した時のタイトルに変更した。編集者の苦悩を映画「ベストセラー 編集者パーキンスに捧ぐ」で、少し前に見ていたことの影響もあったかもしれない。

ストーリーには大きな変更がないものの、演出や細かいセリフについては大幅な変更・追加がなされている。前回映画を見た後の感想では、「原作にややとらわれすぎている」と感じた。それは、一部つながりの悪いシーンやリンの登場の必要性については今でもそう思うのだが、作品全体で見れば、かなり監督の独自色が出ていた。この点については、私の以前の記事を明確に修正しておきたい。また、「間がない」という点についても、一部の場面転換時に限定しておきたい。もう少し余韻があった方が良いシーンがあるのは間違いないが、ストーリー、あるいは会話が展開されている部分についてはそのような印象は、ほぼない。

出演者(の演技)や音楽、映像の美しさなど、注目を集める要素はいろいろあるのだろうと思うが、本作の一番の見どころは、上記の演出や背景などへの細かいこだわり、それを通じて戦時下に生きる人々の「生活」を描き出したことだろう。ストーリーの構成やセリフ回し、ちょっとした描写で感情の機微や登場人物の過去・心情を描く表現力などについて原作者は卓抜した能力を持っており、そういった部分では原作のマンガには及ばないかもしれない(ので、そういった点に興味があり映画しか見ていない、という場合は原作を読むことを強く推奨する)。しかし、原作では内容が濃すぎる結果、わかりにくかったり気づかなかったり、あるいは見落としてしまうような表現が結構あったのだが、静止画であるマンガのコマから動画のアニメへと変換する際に、それぞれのシーンにおける登場人物の行動の意味付けを、動作や会話の追加によって行っている。映画を見た後に原作のマンガを読むと、「この部分はこういうことだったのか」と気付くことが、特に登場人物の行動に関しては多い。

また、史実に基づいて正確な描写をしようという態度を、背景などへのこだわりから随所に感じられた。この点については原作を遠慮なく変えていた。例えば、原作のマンガにおいて水原が青葉の艦上で白鷺を見つけた時の服は白いセーラー服だったが、映画では軍服に変わっているし、時限爆弾についても原作とは様子が違う。これらは資料を参考にした結果、変えた方がいいと判断したのだろう。また、よくこんな大胆な改変をしたなと思うのが、呉が初めて空襲に遭うシーンだ。その場面自体は原作にもあるのだが、空襲の様子を見てすずが「これを絵にできたら」と思うのは原作にはなく連想させる描写もない。同じシーンにおいてお義父さんがエンジン音を聞いてうんちくを垂れつつ感慨にふけったり、工廠歌(だったと思うがとにかく歌)を歌ったりするような描写は他の部分に近いものはあるのだが、この場面ではない。すずもお義父さんも架空の人物なのだから、この場面は創作であるが、極めてリアリティがあるシーンで、二人の性格、さらには「人間」というものの性質をよく理解しつつ描いている。恐らく誰かの体験談や、体験談をまとめた書物などから想を得たのだろうと思うが、何の手がかりもなく思いついたシーンだとしたら素晴らしい。が、感心を通り越して呆れる。どのような思考回路なのだろうか、と。

資料・史実に忠実である、というのはただの趣味や嗜好だと思う人もいるかもしれないが、見る者がそこから何を読み取るかということについて与える影響は計り知れない。原作も含めてこの作品は、過去の戦争について虚構を交えて再構築し再現しようとする作品だったが、現実のある側面を描こうとした点は極めてジャーナリスティックな作品であり、映画は特にその面が強いように思う。

ただ、二回見たうえでの観客の反応を考えると、入れておくべきだったのかなという要素が一つだけある。この作品のテーマは「戦時下の生活」だ。様子と言い換えてもいいかもしれない。ただ、あくまで「戦時下」だ。どれだけ明るく振舞っていたとしても、人の死がすぐ身近にある世界だった。確証はないのだが、リンの後輩テル(すずが持っている口紅は、元々は彼女の持ち物だ)が亡くなったと聞いたあたりから、すずは死に対して何らかの覚悟を持つようになっている。決して数が多くはないのだが、原作では註などで空襲の被害について説明しつつ犠牲者に触れたりしているし、実際に空襲後に被災地へ行ったときには、死体がある状況もすずは目撃している。しかし映画では、時限爆弾が爆発するまでに人が亡くなっている描写はほぼなく、せいぜい鬼いちゃんぐらいだ。生活を覗き見ることで、観客はすずたちを身近に感じていただろう。しかし、死生観は距離が開いたままだったのではないだろうか。時限爆弾の爆発後(敢えてそう書いておく)から、劇場のあちこちで鼻をすする音が聞こえるようになる。涙を流す理由は様々だと思うが、もし「かわいそう」だから、あるいは「戦争って悲しい」というような思いで泣いていたのだとしたら、監督の「1944~45年と2016年はそう遠く離れていない」という、劇場で流れたビデオメッセージに込められた思いはうまく伝わってないのではないかと思う。どうも、劇場の中には「戦争物」を見に来ているような雰囲気があった。

繰り返しになるが、一部のシーンに対して注文があるように、完璧な作品ではないと思うし、広告屋が言うように「百年先まで伝えたい」と臆面もなく言うことにはためらいがある。しかし、人について、世界について、発見するものが多く含まれた良作である。順番は問わないので、原作と合わせて鑑賞してほしい。総合評価はAだ。

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誰のために書いているのか 朝日新聞の社説に対して

私の家で購読しているのは、時々記事についての言及がある通り朝日新聞だ。好き嫌い以前に他の新聞を購読したことがないので、他紙の購読に切り替えるということはまず考えない。紙の質感だとか、テレビ欄のレイアウトに慣れきってしまっている。同じ朝日新聞でも他の地域で発行されているものは、少しずつ違っていたりするので何となく気持ちが悪いのだが、他の新聞はその比ではないだろう。「ののちゃん」が連載されている限り、たぶん朝日新聞を読み続けると思う。

なので、どうせならいい記事を読みたいというのが、率直な思いだ。少なくとも朝日新聞の編集方針というのは「他人の不幸は蜜の味」ではなく、どちらかと言えば「人道」や「社会正義」「優しさ」といった言葉で表されるのだろう。それは決して悪いことではないと思うのだが、時々がっかりやうんざりさせられる。今日は、そのような記事について改善を求めたい。

この記事を書くきっかけになったのは11月17日付の朝刊に掲載されている社説「いじめの手記 きみは独りじゃない」だ。東日本大震災を機に福島県から避難したものの、避難先でいじめにあっていた子供が手記を公表したことに対する記事だ。その子供に対する呼びかけのような形で記事を書いており、朝日新聞の社説では選挙権年齢の引き下げの時など、時々このように呼びかける形式の社説が掲載される。しかし、私はこのような形式の記事が嫌いだ。理由は三つある。

一つ目の理由は、呼びかける形式をとっていること。普段の社説は、「だ・である」の語尾なのに対して、この形式の記事では「です・ます」調になっており、呼びかける相手をことさらに子ども扱いしているように思える。子ども扱いの何が問題かと言えば、相手を自分とは対等な存在と考えていないからであり、そのため当該の問題に対する当事者意識の欠けた発言や記事となる。結果として問題の本質に踏み込めない中途半端な文章になる。

今年の春に公開されていた「スポットライト 世紀のスクープ」はアメリカのカトリック教会で行われていた児童に対する性的虐待を暴く記者の話だったが、印象的なシーンの一つが事件を告発しようか悩む記者に対して同僚が自分たちも同じような被害に遭っていたかもしれない、あるいはこれから自分の子供たちが同じような被害に遭うかもしれないと気付く場面だ。過度の感情移入は禁物だとしても、目の前の問題を自分のこととして引き付けて考えることができないのであれば、それはもうビジネス以上の何かになることはないのではないだろうか。私は善い報道ではないと思う。

二つ目の理由は掲載場所である。朝日新聞の社説が掲載されているのは、多くの場合朝刊の真ん中のあたり、オピニオン面である。新聞社の意見というのは、社会の中の一つの意見に過ぎませんぜ、というつもりがあってオピニオン面に掲載しているのであれば見上げたものだと思うが、目につきにくい場所には違いない。子供が読むのはテレビ欄と4コマ漫画だけ、などと言っていたのももう昔の話で、今では新聞のない家庭も多いかもしれないが、もう少し掲載場所は工夫するべきだろう。子供向けの記事かどうかにかかわらず、コアな読者層以外にも読んでもらおうという意志を感じない。

商品の展開場所は小売店で働く人間にとっては、最も重要な点だろう。私もある文庫について、人気作だからお客さん勝手に探してね、と高をくくって適当に展開していたら全然売れなくなってしまい、一等地に展開し直したらきちんと売れ出した、という苦い思い出がある。紙の新聞の読者がどのように読むかの追跡調査は難しいかもしれないが、新聞離れが進んでいると思うのであればもう少し頭を働かせて、新聞をあまり読まない人間の心理を想像するべきだろう。普段、新聞を読まない人間が、コンビニなどで一面の見出しを目にする機会はあっても、新聞を開いて中の社説を読むことなどありえない。

三つ目の理由は、呼びかけによって何をしたいのかわからないこと、あるいは呼びかけることで社会を変えようという真剣さが感じられないこと。今回の記事で言えば、いじめに関するいくつかの事実を記し、いじめの原因のいくつかは「大人の社会の問題」だと言ってはいるものの、大人の社会に属するはずの記者と新聞社が「大人の社会の問題」を解決するためにどうこの問題に関わっていくつもりなのか全く書いていない。少なくともこの文章を見る限り、記者と新聞社は傍観者以外の何者でもない。これでは見出しの「きみは独りじゃない」という呼びかけも空々しく聞こえる。「いじめはいけない」という原則論を書いているだけで、いじめは減っていくものだと思っているのであれば、ずいぶんとおめでたい世界観の持ち主だが、まさかそんなことはないだろう。だとすれば必要なのは自身の同情を示すことでもなく、祈りや願いを書くことでもなく、報道機関としてどのように関わっていくかを書くことではないのか。

選挙権年齢の引き下げの際にも、若年層に対して投票を呼び掛ける社説が掲載された。かつてブログのネタにしようと思いつつ没にした記事だが、その社説について書いたものが残っていたので下に引用する。

 

社説での呼びかけ方も良くない。投票に行かないと良くないことが起こるというような論調だ。かつて朝日新聞で連載していた天野祐吉CM天気図では、「これを買わないと悪いことが起きますよ」というような広告はあまり上品ではないというようなことが書かれていたと思うが、この社説がまさにそれに当てはまる。あまり親しみのない人から「何か悪いことが起こるので、そうならないよう行動しませんか」と言われても、気味が悪いだけだろう。まるで、宗教の勧誘のようだ。

 

恐らく若年層が投票に行かないと投票率が高い高齢者優先の政策が決まりやすい「シルバー民主主義」の弊害について指摘していたのだろうと思うが、普段、若者、特に学生向けの記事が大して多くもないにもかかわらず、何かがあった時だけ「若者よ、投票に行こう」などと呼びかけて、読んだ人間が投票しようとでも思っているのだろうかという怒りが爆発したのだろう。若者に何か呼びかけるような社説は、そのような自己満足で終わっていることが多い。

社説で何らかの意見を表明するのは、社会に対して何か良い影響を与えようと思ってのことだろう。特に、呼びかけるような形式の社説はそのような意図が強いはずだ。しかし、私にはそれらの社説は穴に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫んでいるだけに過ぎないように思える。もっと言えば、ただ自慰行為をしているだけの偽善者だ。そうではないというのであれば、以下の三点について検討してほしい。

    取り扱っている社会問題が自分とどう関わっているか。「対岸の火事」だと思っていないか。

    読者に記事が取り扱っている問題を届けようと工夫しているか。惰性的な仕事をしていないか。

    問題の解決を望むのであれば、それに対して自分たちはどのような対価を支払うつもりでいるのか。

もし心ある朝日新聞社社員がこの記事を読んだのであれば、以上3点は上司に問い質して欲しい視点だ。いじめや自殺など心の問題が絡む記事では、どうも「他人事感」が漂ってしょうがないことを憂いている。

 

ちなみに、私の書いているこの文章も、自慰行為でしかないのは重々承知しているが、ソクラテス的な論法により、自覚無くマスターベーションを垂れ流している人間よりは遥かにマシだと思っている。

 

編集は難しい 「この世界の片隅に」の映画を見て

前回、原作を取り上げた「この世界の片隅に」の映画を見てきた。平日の午後という時間帯を考えれば、かなり混んでいた方だと思う。以前「ニュースの真相」という映画を見た時にも同じように混んでいたことがあったが、客のほとんどがババア年配のご婦人方だったことからすると、往年のスター、ロバート・レッドフォード目当てだったのだろう(隣に座っていた年寄りは、上映前までやたらと元気だったのに、開始早々すぐに眠ってしまい、終わりまでずっと寝ていた)。ネットニュースの「あなたへのおすすめ」は時々「この世界の片隅に」のニュースが出てきてしまうが(正直鬱陶しい)、流し読みあるいは見出しを見た限りでは主人公の声を担当している「のん」目当ての客が世間には結構な数いるようで、自分が見に行った時に混んでいたのもそのせいかもしれない。予告編を見た時に、これは面白そうだとは思ったが、予想以上の盛り上がりを見せている。

そんなところに水を差すようで悪いのだが、今回見た感想は、手放しでほめられる映画ではないとしか言えない。映像や音楽、出演者の演技等に不満があるわけではなく、それらの点についてはむしろ高評価だが、ストーリーの組み立てについて2、3の問題があった。私は原作を読んだうえで映画を見ているので、どうしても原作との比較で映画を見てしまったため、映画だけでも問題のないストーリー構成になっているかはもう一度見ないと分からないが(そのうち行こうかなと思う)、とりあえず疑問を感じた点をまとめることにする。記憶を頼りに書くので「間違っていたなら教えて下さい 今のうちに」(原作初出一覧より)。また、ネタバレも含むためそのあたりについても了承していただきたい。

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こうの史代「この世界の片隅に」と「夕凪の街、桜の国」

あまり意識していた訳ではないのだけれど、私はどちらかと言えば作者買いをする方で、中学・高校の頃は谷川流の本を集めていたし、大学生以降は森見登美彦の本を(単行本と文庫を別に数えなければ)全て買った。マンガだと、青池保子久世番子甲斐谷忍などの作品は、読むきっかけになった作品(それぞれ「エロイカより愛をこめて」「パレス・メイヂ」「LIAR GAME」)以外も少しずつ買っては読んでいる(手塚治虫も好きだが、全巻購入は今のところ考えていない……)。そのような買い方をしているため、自分の店で売り上げを確認していると、同じ作者の本でも売れ行きが全然違うことに驚く。どうも、世間では作者買いをする人間、あるいは買い方が多数派ではないような気がする。

ただ、同じ作者の本を集めると言っても誰の本でも買うわけではない。「これは!」と思うような作品と作者にはなかなか出会えないし、好きだったけれど途中であまり面白くないなと思ってしまう作者もいる。好きな作者は、比較的「ハズレ」が少ないが、それでも好みに合わない作品はある。いつも面白いという保証はどこにもない。それでも、新作が出るたびに買ってみようと思えるような作者に出会えるのは余程幸運なことだと思う。

そのような意味で、こうの史代の作品に出会えたことはとても幸運だった。今回はこうの作品の紹介と、上述した作家たちとの共通性、「遊び心」あるいは「ギャグ」について考えたい。

前回も紹介した「この世界の片隅に」は第二次世界大戦前後の広島県(特に呉市)が舞台。広島市郊外出身の主人公すずが呉の北條家へ嫁ぎ、戦争の気配が濃くなっていく中でも営まれる生活が描かれる。「夕凪の街、桜の国」は終戦から10年後の広島に住むある女性と、それから約30年後と50年後の東京に住む女性の姪が心に抱える闇を、それぞれの生活(とその延長線上)の中で描いていく。前者は各回8ページ程度の短い話が続くが、後者は平均30ページ程度の中編が3作収録されている。

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

 

 

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

 

 

この世界の片隅に」の映画を見ようと思ったきっかけは劇場の宣伝だった。ムビチケカードが展示してあるのを見て、あまり見慣れない絵柄のアニメだなと思い興味を持っていたところ、ちょうどその日に見た映画の宣伝で「この世界の片隅に」の予告編が流れた。戦争を題材にしていたことにも多少興味があったが、音楽や作画など作品全体から柔らかい印象を受けたこと、特に主題歌の「悲しくてやりきれない」に惹かれて見てみようと決めた。ポイントの有効期限が近くなっていた(あるいは既に切れていたかもしれないが)劇場近くの本屋で、展開されていた原作が目に入り購入したので私はこの作品に出会うことができた。「夕凪の街、桜の国」は、同じ作者の別の本が読みたかったからだ。

どちらも、文化庁の芸術祭で受賞している作品だが、正直なところ、受賞したから読んでみようと思う人間は少数だろう。作品のことを知るきっかけにはなるかもしれない。しかし、こういった賞の選考基準にはテーマや表現に関わるものが含まれているため、必ずしも一般の読者の嗜好とは一致しない。どちらの作品も、「戦争」と「ヒロシマ」が程度の差はあれ関係している作品だ。作者について知らなければ、そのような問題に興味のある人は関心を持つかもしれないが、敬遠する人は多いのではないだろうか。

私自身、実は戦争物はあまり好きではない。代表的なものは「はだしのゲン」と「火垂るの墓」だと思うが、どちらも見たことはないし、進んで見る気にはなれない。悲愴感漂うような話や戦時中は暗い時代だったというような話は、どうも好きになれないのだ。今回に限って言えば何か義務感のようなものを感じて、戦争物の映画を見なければいけないと思ってしまったし、お手軽に「戦争っていけないよね」ということを確認しようとしていたかもしれない。娯楽作品というよりは、教養作品として観賞しようとしていた――のだが、読んでいるうちにそんな考えはどこかに消えた。とにかく面白いのだ。

どちらの作品も上で懸念したような戦争物特有の悲愴感はほとんどない。決して悲しい話や場面がないわけではないのだが、多くの話はコミカルであり、むしろ、それまでの真面目だったりしんみりとしていたり、考えさせられたりするような雰囲気を台無しにしかねない結末(オチ)が多い。しかし、そこは作者の絶妙な匙加減により作品の描こうとするものを損ねることなくスパイスとして働き、テーマと娯楽性を両立させている。(なお、映画の予告編を見た時の印象では、「この世界の片隅に」の映画は、もう少し「戦争物」としての雰囲気が強く出ている作品のようである。)

また、「この世界の片隅に」は作画の面でも素晴らしい。普段はペンで描くが、場面次第では筆や鉛筆、口紅などを使う画材の工夫や特定の場面の背景を利き手ではない左手で描くなど、表現へのこだわりもすごいのだけれども、一番印象に残ったのはいくつも出てくる風景画だ。斜線、つまり陰影だけで風景を描き切るのは本当に見事というほかない。(作画等についての細かい話は映画の公式アートブックを見るといろいろ面白いことが書かれているので、興味のある方はそちらも見ていただきたい。)

 

「この世界の片隅に」公式アートブック

「この世界の片隅に」公式アートブック

 

 

少年ジャンプなどのスポーツマンガやバトルマンガに比べれば動きのある絵にはなりにくい効果線の使い方やコマ割りであり、手塚治虫のマンガのようにやや古い印象を受けないでもないが、むしろ、フリーハンドで描かれた効果線が独特の雰囲気を生み出し、面白さを増幅させる。個人的には、「楠公飯」の回と「砂糖」の回はツボにはまって何度も読み返しては笑い転げていた。

唯一、残念、というより戸惑ったのが、「この世界の片隅に」の上巻の2話目でいきなり画材が変わることだろうか。上巻の最初の3話は主人公の幼少期の話で4話目から「この世界の片隅に」というタイトルで連載が始まる。幼少期の3話も、「この世界の片隅に」も、上述の通りペン画が基本なのだが、2話目の「大潮の頃」は全編が筆で描かれており、雰囲気が1話目とは全く違う。そのため、これは本当に同じ作品なのかと疑問を抱いてしまった。後の方の話で画材が変わる場合は、大体納得できる理由が見つかるのだが、この話に限ってはよくわからない。初期の試行錯誤の結果なのだろうか。ついでに言えば、「夕凪の街、桜の国」は一瞬、買うのをためらった。何故かって?100ページ程度で800円(税抜)で「この世界の片隅に」よりも薄く高いのである。面白いからいいのだけれど、やっぱりちょっと……。ためらうお値段ではある。

ストーリー、テーマ、作画、語り、どれをとっても一級品だ。総合評価はSとしたい。

 

さて、真面目な主題を扱いつつも、コミカルで温かみのある作品に仕上げているのが、こうの史代のマンガの魅力だと思うのだが、同じように真剣なストーリーを展開させつつあちこちに笑える仕掛けをした作家が、昔から好きだった。

手塚治虫は「マンガの神様」と呼ばれていたがパロディの多い作家だった。自分の作品ではブッダブラックジャック化するし(「つまり私は医者だ」)、他の作家の名前や作品がよく登場する(「ヤッテバチ、ルボーノキサワカ」)。特に赤塚のネタは大好きだったようだ(「わしはこの島の大僧官だがバカ田大学で医学を学んだ‼」)。女性の下半身型メカを登場させたときには局部に黒線を引いたうえで作者キャラが「修正させられた」と泣き言を言い出す始末である。やりたい放題だった。

井上雄彦の「スラムダンク」は現在でも評価が高いし、感銘を受けた人も多いと思うのだが、初期はもっとギャグマンガ調だった。スポーツ路線が本格化してからでも、陵南との練習試合が終わった後に1年生部員が5人しか残っていないことを赤木が告げるシーンにおいて、1年生唯一の眼鏡キャラ石井君が吹き出しの中の手書きのセリフで、「試合中にいなくなった奴もいます…、とんでもねー」というよくよく考えれば衝撃の発言をしているし、単行本の空いたページでは本編を台無しにするような大喜利が展開されている。魚住の「うちには点を取れる奴がいる。オレが30点も40点も入れる必要はない。オレはチームの主役じゃなくていい」という本編のセリフは、そこだけ見れば本当に感動的だと思うのだが、単行本のページをめくれば「話の主役でさえあれば」などと、それこそ「とんでもねー」セリフが目に飛び込む。

るろうに剣心」や藤崎竜封神演義」、前述の「パレス・メイヂ」なども同じような路線だったと思う。それぞれの作者がどのような意図で笑いを入れていたのかは定かではない。あまり真面目ぶった作品だと臭くなりそうだったからかもしれないし、作者の照れの結果かもしれないし、単純に読者を笑わせたかっただけかもしれない。人それぞれだろう。考えても仕方がない。ただし、そのような描き方がもたらす効果を考えることはできる。予想しているものとは、違う路線の話が展開されたときに不意打ちのように感情を動かし、作品に対する印象が強まるのだ。

逆のパターンも存在するので考えてみる。土田よしこの「つる姫じゃ~っ!」や「クレヨンしんちゃん」は普段は感動などするはずもないギャグマンガで、読者・観客もそれをある程度期待して鑑賞するはずだが、ある程度まではその期待に乗りつつ、あるとき突然裏切ってまさかと思わせる展開に引き込む。予期せぬ展開が感動を生む。最初から感動を狙っていたのでは、クレヨンしんちゃんの映画が実写でリメイクされるようなことはなかっただろう。

私自身、今年の春に公開された「怪しい彼女」の日本でのリメイク版で不覚にもほろりとした場面がいくつかあった。志賀廣太郎の顔芸見たさに見に行ったので、そういった心構えが全くなかったことが原因だろう。「悲しくてやりきれない」はその映画で初めて知ったのだが、ちょうどその歌が使われているシーンには不覚を取った。

この世界の片隅に」に戻れば、戦争を主題に据えつつもコミカルに描くことに批判があるかもしれない。娯楽性を重視してしまっては、戦争の実態が伝わらないこともあるだろう。作者自身、公式アートワークの中で、そのことを念頭に置いていると思われる発言がある。しかし、私は、たとえ戦時下であっても、決して暗いばかりの時代ではなかったのだと思う。

例えば、「この世界の片隅に」の中の呉が初めて空襲を受けるシーンで、すずの義父が空襲中にもかかわらず寝てしまうシーンがある。そんな馬鹿な、と思う人もいるかもしれないが、昭和6年生まれの私の祖母も米軍機をやり過ごすために畑の中に隠れたらそのまま寝てしまったそうで、絶対にない話とは言えない。

作品内の話と似たような話ではないが、祖父の戦争中の経験も、後から振り返れば笑い話、というようなことはいくつかあったようだ。戦時中が楽しい時代だったと言いたいのではない。ただ、当時の人も、いつもいつも辛いと思って生きていくことはできず、ちょっとしたことに楽しみを見出しながら、戦争を生き抜いたのではないかと思う。そういえば、イラク戦争の時だったと思うが、前線に向かう兵士がトラックの荷台でポルノを読んでいたのが印象的だった。これから死ぬかもしれないという緊張感はあまりないように見えたが、それは意識的に作っていた雰囲気なのだろう。辛い状況ばかり考えていたのでは精神が壊れてしまい、戦闘どころではない。

悲観的なことばかり考えているわけではないというのは、現在の状況だけでなく、過去の経験についても当てはまることだ。辛かった時の記憶、あるいは心の傷というものは、ある程度の期間が経過すれば、いつも意識の上にあるというものではなくなってくる。人によってはそういう状態になることを「立ち直る」と表現するのかもしれないが、忘れてしまったわけではないので、折に触れてその記憶がひょっこりと顔を出す。「傷口は塞がるが、傷跡は消えない」ものだ。「夕凪の街、桜の国」の、特に広島の女性が主人公の話である「夕凪の街」は、そのような点をよく描写している。しかし、決して忘れることができなくても、普段は何でもないように振舞えてしまう。それが良いのか悪いのかはわからない。ただ、「傷跡は消えないが、傷口は塞がる」とも言えるのだ。

作品がコミカルであるということは、より多くの読者を獲得するために必要な仕掛けだ。本作では、その仕掛けが作品のテーマを損ねることはなく、むしろ人間の性質をよりよく映し、作品のリアリティを高めてさえいるのではないかと思う。やはり、いい作品だ。

宮崎駿エロオヤジ説を主張する

見に行くつもりだった「FAKE」も「A2」も結局、見に行かなかった。その代わり、10周年記念で上映されていた細田守監督作品のアニメ「時をかける少女」を(別の映画館へ)見に行った。先に原作を読んでおこうと思っていたのだが、夏文庫の山の下に埋もれており、救出は不可能だった。できれば原作との対比なども含めていろいろと考察したいので、今回は映画についての雑感と、予告編で気になった作品を取り上げる。

幅広い年齢性別への支持を取り付けているアニメ監督として、宮崎駿の後継者に細田守を挙げていたのは宇野常寛だったと思う(朝日新聞紙上、違ってたらごめんなさい)が、そのことと、他の記事(こちらは出所を完全に忘れた)を合わせて細田守の後継者候補として新海誠の名前が挙がっていたことは、以前、私も紹介した。なるほど、予告編の中でやっていたアニメは「艦これ」と「この世界の片隅に」であったが、「この世界の片隅に」はともかく(この作品は後で紹介したい)、「艦これ」はどう考えても、宮崎たちの作品よりストライクゾーンが狭い。ドラえもんクレヨンしんちゃんポケモン、コナン、ガンダムエヴァンゲリオンなど、人気アニメは数多くあるが、海外の映画祭などでも評価が高そうな作品となると、先に挙げた3人の監督作品の方が、文学的と言えばいいのか、そのほかの作品よりも先に来るのは間違いないだろう。

しかし、自分が見た作品の中で限定するのであれば、宮崎駿とほかの二人は客層を決める要因について、決定的な違いがある。宮崎駿は「ハウルの動く城」までの作品しか見ていないし、細田守は今回見た作品のみ、新海誠に至っては「小説 君の名は。」を読んだだけで映画は全く見ていない(そう、「君の名は。」はまだ見ていない。これほど流行るとは思っていなかった。夏文庫のフェアが届いたころには、自分だけが小さな宝物を見つけた気分だったが、映画公開以降の勢いを見ていると、見知った人間がどこか遠くへ行ってしまったような気さえする。まるでハルヒの再来を見ているかのようだ)。なので、もしかしたらこれから書くことは「ポニョ」や「風立ちぬ」には当てはまらないのかもしれないが、一応、書いておく。

宮崎と二人の違いとして私が考えているのは、主題、特に「恋愛」というテーマの選択についてだ。「恋愛」だけが主題というわけではないが、「時をかける少女」にしても、「君の名は。」にしても物語の中心として「男女の恋愛」というのは外せないテーマだろう(私は、同性愛と両性愛の表現を否定しないが、異性愛者が多数派だという事実から、同性間の恋愛は映画内で取り扱われないと、以下でも考える)。どちらも、主役の二人を同性にしてしまった場合に、不要な描写、成立しない場面がとても多い。「時をかける少女」では、主人公の周辺で起こる色恋沙汰に関してタイムリープを繰り返すし、「君の名は。」では冒頭の入れ替わりが男女間で起こったのでなければ、それぞれに対して強い印象と違和感を残すことができなかっただろう。今の設定では二人は田舎と都会に住んではいるもののそれぞれ現代の日本に住んでいるが、もし二人が同性だったのであれば住んでいる国が違ったり生きている時代が違うなど、二人がより遠い存在であるような設定に変更しなければならなかったに違いない。どちらの作品でも、大幅なストーリーの変更が必須だ。

それに比べると、宮崎駿の作品では主役二人を同性にしてもそれほど違和感がないように思う。主役二人の間に成立する関係が恋愛でなく友情だったとしても、別に構わないと思えるような作品が多い。あるいは、恋愛についての描写が淡泊と言えばいいのか。主人公たちが恋愛について悩んでいる様子はほとんどない。悩むべきはそれよりも、生命の危険や世界の行く末という話ばかりだ。恋愛よりも興味のあることが、それぞれの主人公にはあった。

唯一、例外と言えそうなのが「ハウル」で、偏見であることを自覚したうえで言うと、主人公が男性だった場合、ハウルに見捨てられたのではないかと思う。序盤のあらすじを忘れてしまっているので、そんなイメージを持つだけなのかもしれないが、男性というのは助けられる対象ではないというイメージが世間に広く流布している。「北斗の拳」において、男性がゴミ屑同然に死んでいく場面は何度となくあるが、女性が無残に、少なくとも秘孔を突かれたことで破裂するような死に方をしたことは、一度としてない(はずだ)。男性には自活するか、さもなくば野垂れ死ぬかの選択しかないらしい。男性の扱いに対しては同情の余地を禁じ得ないが、ソフィーのポジションに就けるのは、愛らしい動物かせいぜいカカシが限界で、爺さんの入り込む余地はない。(なお、男性の方が実際に犯罪の被害に遭いやすいという研究もある。興味のある方は以下を参照していただきたい)

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

 

↑翻訳はやや読みにくいが面白い

話が逸れたので元に戻すと、主人公には恋愛以上に興味のあるものがあった。空を飛んでラピュタを見つけるとか、空を飛んで立派な魔女になるとか、豚になっても空を飛ぶとか、大体は空を飛ぶことだった(他にもあるが)。宮崎駿自身が絵を描いてそれを動かすことと、空を飛ぶものに夢中だったからだろう。前者については三鷹の森ジブリ美術館の展示内容を、後者については作中の飛行シーンの多さを見れば何となく伝わってくる(余談だが、三鷹の美術館はアニメーターあるいはアニメ業界志望者が行く場所であって、ミーハーとクソガキの行く場所では断じてない)。男女を二人にして放っておけば、後は勝手にくっつくだろうとでもいうような、ある意味ではエロオヤジのような思考回路が、宮崎駿の作品には組み込まれているように感じる。製作者は、恋する二人は見守る対象であって同化する対象ではない、というスタンスをとっているように、私には見えるのだが、あなたはどうだろう。残念ながら、私はカンタやトンボにはときめくことができそうにないが、彼らの行く末が幸せであることを祈ろうとは思う。

恋愛の成分が薄くなった結果、恋愛なんて関係のない小学校就学前の子供に対しても宮崎駿の作品は広く好まれるようになった。さらに言えば、宮崎の作品には「子供」に対するまなざし、特に好奇心などについてある種の理想を見出すようなまなざしがあった。スピルバーグも同じようなものを持っている。それに比べると、「時をかける少女」も「君の名は。」も、子供は作品の中からも、外からも排除されている。それぞれの作品の恋愛についての向き合い方が違うのは、アニメはだれが見るものか、という問いに対する時代の変化も、ある程度は反映されているのかもしれない。

話の作り手は大体の場合、「大人」であり、「子供」というのはほぼ必ず他者である。その「子供」に対する視点を持っているということは、つまり少なくとも一つは他者に対する視点、自分以外のものに対するを持っているということであり、その分、作品の世界は広がる。細田守の作品も、「時をかける少女」以降、子供も対象年齢に含まれる方向にシフトしているのではないかと(作品を見たことはないが、書籍化された商品の表紙などから勝手に)考えているのだが、それは子供が決して「大人」に対して劣った存在ではなく、侮れない「他者」だからなのかもしれない。

コンテンツが少なかったころのようには、誰もが見たり聞いたりしたことのあるという作品を作るのは難しいかもしれない。しかし、もしそのような作品の条件の一つが上に書いたようなことだとするのであれば、それとは反対の作品というのは自分自身にしか興味のない作り手が作る作品であり、それはもう自慰行為に他ならない。

市場が細分化されてきているため、ニッチな顧客層を狙ったコンテンツは、近年ますます増えつつある。対象年齢が広いものは売れないのかもしれない。しかし、それでもより多くの人に届けようとする作り手の姿勢は忘れてはいけない。今回、考えたことは私自身も反省しなければならないと思う。

 

最後に紹介するのが、11月12日から公開予定の「この世界の片隅に」。第二次世界大戦前後の時期の呉市を舞台に、一人の女性を中心に物語は進む。 

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 

 映画館から出て少ししてからタイトルを忘れたために、近くにあった書店で上巻のみを買った。残りは自分の勤務している店で買おうと思ったら、上中下の三巻構成の作品で一緒に送られてきたにもかかわらず中巻のみを返本し、上下巻を棚に並べるとんでもない店だったので、残りはまだ購入していない。全体の評価は全巻読んでから書こうと思う。ただ、戦時中でありながらささやかな日常の幸せと笑いを描く良作だ。上巻では主人公はまだ戦争の被害を直接は受けていないが、これからどのような話の展開になるのか気になっている。気になった方は書店で手に取ってもらいたい。

ただし、注意するべきはこの本は前後巻か、上中下巻の形式で販売されていることである。上下巻のみ置いてあるような本屋は、中巻だけ売り切れたか、よく見ず返本している可能性がある。注意されたい。